龍田比古の奥山日記

愛する人を追い、斑鳩、三郷、平群、生駒、安堵…龍田川流域など大和を歩いている。気持ちのいい石室によこたわるかとおもえば、万葉のイリュージョンに垣間見たり、十一面観世音が暗号を呟く。…生駒郡という現代の地名を旧平群郡と読み替えると、いろいろなことが見えてきました。

大門ダム探検~信貴山寅まつり2014

昨年は信貴山に何度登っただろうか。
平群町観光ボランティア養成講座の最初のガイドコースが千体地蔵から開運橋~弁財天の滝~高安城趾~信貴山城址朝護孫子寺信貴山iセンター、だった。だからかつて一度しか行ったことの無かった信貴山の隅からスミまで昨年は拝見することができた。バス、自家用車、スクータなどで、信貴山下から、三郷から、生駒山地の中腹を南北に走るフラワーロードから、また駐車場から、山門から、堂守さんから教わった奥の院へ続く参道(墓地のある山道)から、いろいろアプローチした。心残りは唯一つ、自転車で参拝していないことだ。信貴山参拝は自転車こそ気持ちいい達成感を味わえる交通手段だと考える。

ところで、信貴山の寅まつりに大門ダムが見学できるという。
NPO法人信貴山観光協会(理事長田中眞瑞氏)主催の「信貴山寅まつり・大門ダム探検隊」知ってすぐに応募。平成26年2月8日10時のコースを希望したが、大雪注意報が発令され順延された。
さてこれが朱塗りの信貴大橋から見下ろす満水の大門ダムである。
f:id:n-hiko:20140211181223j:plain
小ぶりのダムで郡山土木の説明によれば奈良県で一番小さなダムであるらしい。出来たてのほやほやだから奈良県最新のダムでもあるだろう。
入り口は大門ダム湖(大門池)~大門川の左岸にある。
f:id:n-hiko:20140211181652j:plain
手前の雪を装う屋根が無人管理棟、いざというときに監視や運転ができるようになっている。が、普段は郡山土木の事務所で遠隔監視しているとのこと。
右手朱色の信貴大橋の下の水面にオレンジ色のブイが並んで浮いているが、そのタモトの少し出っ張った所に平安時代に水をせき止めていた大門池の堤があったらしい。現在堤は水中に保存されているとのこと。考古学的な調査はあったらしいが、昭和時代の石碑などが残るのみとか、弘法大師の時代だと思うんだけどなぁ。大門ダムは800年働いた大門池に負けていられないと職員さんが微笑む。そうかこれから最低800年はこのダムが働くのだ。

整備中の遊歩道や桜花壇などの向こうの管理エリアで説明を受けたあといよいよダム体内の入り口へ降りる。
f:id:n-hiko:20140211182819j:plain
階段の雪は綺麗に撤去されていたが水溜りが残る。風もあり寒い。
ダムの大きな壁の中ほどまで降りると秘密の入り口があった。将来遊歩道が開設されてもここはもう入ることはできないだろう。中に入るとまた降りの階段が延々と続く。左に手すりがあり、右には電線や光回線のケーブルなどがバスの網棚みたいなものの上に走らせてある。足元の溝にはところどころに大きなコックがありペットボトルの廃品で漏斗やタンクをくっつけ、水食や水量を見えるように工夫されている。最先端の建造物に素朴な用具を組み合わせているのがほほえましい。
f:id:n-hiko:20140211183802j:plain
ダム本体内は暖かい。夏は涼しいらしい。
下は大切なセンサーの一つ地震
f:id:n-hiko:20140211183921j:plain
これらは奈良県の専用回線で遠く離れた事務所とつながっているのだ。
センサーとしてはこの地震計だけが目に見えるもの。
通路の天井は床から3メートルぐらいあるだろうか、背の高い人でも胸を張って歩ける。古墳の羨道とは違い歩きやすい。降りてきた反対側にはシンメトリーに昇る階段が見える。
f:id:n-hiko:20140211184425j:plain
整備中の遊歩道から眺める大門川右岸から見るダム。
帰りはダムの堤の頂きの通路を戻る。
f:id:n-hiko:20140211184854j:plain
中央でダム底を覗いた。おお怖っ!
f:id:n-hiko:20140211185111j:plain
整備中の遊歩道
過去の大門池についての十分な調査や展示がなく、この地域の史的なダムの連続性や発展性について不明なのは少々残念だったが、このダムを水防に利用し、水道に使い、今後ウォーキングコースを作り、ビオトープも設置して楽しそうなエリアにされるとのこと。
http://www.pref.nara.jp/secure/109666/07shimadaronbun.pdf
これが僕には楽しみだ

雪の宝山寺ふたたび

今年の大雪に始発電車の遅れはなかった。始発のケーブルに乗ったのは何度目だろう。
f:id:n-hiko:20140211150202j:plain
このケーブルの沿革を少々。
ケーブル鳥居前駅のある近鉄奈良線生駒駅は大正2年(1913)に大軌(大坂電気軌道)生駒駅として開設、同年すでに生駒隧道を社運をかけて完成していた大軌は上本町・奈良(奈良市高天町の仮駅)間の営業運転をはじめた。
生駒鋼索鉄道は、大正3年に生駒山鋼索電気軽便鉄道(同日付で生駒鋼索鉄道に商号変更)として設立、その後生駒鋼索鉄道の経営は大軌主導で進められ、大正7年8月に鳥居前・宝山寺間を開業、同11年会社合併、昭和元年鳥居前・宝山寺間複線化、同4年宝山寺生駒山上間営業開始、ということで日本最初のケーブルが走り出したのであります。
生駒駅に接続する近鉄生駒線の歴史を眺めてみると、信貴生駒鉄道や信貴山電鉄のケーブル、そして信貴山の大阪側のケーブルと奈良側のケーブルを結ぶ山上の平坦線も登場する面白い話しにつながりますが、それはまたいずれ…

宝山寺はその朝小雨の降りしきる暗く寒い静けさに包まれていました。
f:id:n-hiko:20140211160614j:plain
大鳥居を抜け山門をくぐるとお大師さま、本堂、聖天堂とお参り、なぜか親しみを感じる文殊堂をお参りした。
f:id:n-hiko:20140212190323j:plain
ここには清らかな積雪の上を斜めに走る動物の足跡しかついていない。もったいないと思いながら僕の足跡をつけてしまった。あれは猫ではなく狸かなぁ。
般若窟の真下から拝んだあと観音堂の後ろの崖に近づくと
f:id:n-hiko:20140211162542j:plain
狸とは全然違う大きな足跡、爪が左右に分かれているから猪?マサカ。振り向くがイノシシの気配は無い。姿も見ずに怖がる自分がおかしい。戻る足跡は無い。その足の持ち主は崖を通ったのかもしれない。聖天堂の宝珠や本堂の屋根を眺める所だ。
この上の大師堂ではプラスチックの風情の無い大きなごみバケツをひっくり返し、中身をあさったあとがあった。ここにも足跡があった。雑にごみをポリペールに戻し片寄せ先を急いだ。近くに腹を空かせた動物がいるようだ。
奥の院ではまず湛海さんのお姿を見た。
f:id:n-hiko:20140211163537j:plain
この極寒の宝山寺なのに暖かい綿をまとっておられるようで、こちらまで暖かくなってきた。そうこうしているうちに汗が噴出してきた。
f:id:n-hiko:20140211163849j:plain
奥の院と大黒産の間にある蝋梅と椿
f:id:n-hiko:20140211164008j:plainf:id:n-hiko:20140211164015j:plain
こんな人工的な宗教的なただ中で
すがすがしい自然を感じることができたありがたい朝でありました。

信貴山大本山玉蔵院

○玉蔵院(ぎょくぞういん)
信貴山の宿坊の一つ。融通尊(ゆうずうそん)のほか高さ14.56mの「日本一大地蔵」などが祀られている。また「浴油堂」(よくゆどう)では毎朝護摩祈祷が行われている。この浴油堂の建物は丹精で美しく、境内でも一番居心地のよい建物であると私には思われる。
三重塔には阿閦如来(あしゅくにょらい)が祀られ、「大和十三仏霊場」としてご朱印巡りを進めている。
※(参考)大和十三仏霊場(事務局は安倍文殊院):①宝山寺不動明王②西大寺釈迦如来③安倍文殊院文殊菩薩④長岳寺普賢菩薩金剛山地蔵菩薩當麻寺中之坊弥勒菩薩⑦新薬師寺薬師如来⑧おふさ観音観世音菩薩⑨長弓寺勢至菩薩霊山寺阿弥陀如来信貴山玉蔵院阿閦如来⑫円成寺大日如来⑬大安寺虚空蔵菩薩
f:id:n-hiko:20130908181231j:plain
○大本山玉蔵院
山門の左、基壇上の「浴油堂」は、真言密教の中でも秘法中の秘法を厳修します。浴油とは、私たちが斎戒沐浴して祈るのではなく、毘沙門天王に浴油を献じて効験を賜ります。
それ故、心身を清浄にして祈念しますと、必ずお加護があります。逆に邪念があると、毘沙門天王は、その心を打ち砕くでしょう。
段丘上に瀟洒な「融通堂」と、三重塔様式の仏殿を構え、天空に地蔵菩薩坐像が露座する豪華な仏国浄土は、山内随一を誇ります。
刮目するのが融通堂の荘厳です。新義真言宗の開祖・覚鑁上人が、毘沙門天王より授かったと伝えられる如意宝珠の御分身を安置しています。この故に「玉蔵院」渡渉するようになりました。
仏殿の中尊に安置する阿閦如来は、四菩薩が守護して諸々の悪魔や外道を打ち砕き、衆生の息災を司ります。別名を不動金剛または畏怖金剛とも称します。
両脇壇には、古仏の大黒天と三宝荒神を合祀して、神仏習合の祈りを彷彿とさせます。また天を仰ぐ地蔵菩薩像の台座は三界万霊の龕窟にして、供養を手向ける人々の祈りがあります。
宿坊は山内屈指の構えで、本院に百花繚乱の襖絵六十八面があります。作者は箱崎睦昌氏、平成十年の寄進です。
<主な行事>
出世毘沙門天王大祭・5月5日
浴油堂大祭・11月22日~24日
護摩祈祷・5時より(夏期)、5時半より(冬期)
f:id:n-hiko:20130908181248j:plain
浴油堂
このお堂はとても静かで落ち着きます。心安らぐ空気が流れているように感じました。
f:id:n-hiko:20130908181402j:plain
地蔵菩薩坐像

f:id:n-hiko:20130908181502j:plain
仏殿

信貴山水屋

水屋(みずや)(猪上神社旧社地)
本堂の北西、かつて猪上神社が祀られていた所に水屋があり、参拝者の清めの場であるとともに、雄嶽山頂の空鉢堂に供える水を汲む場でもある。ここで金属製のポットに水を入れて運び上げるのである。

※わたしの信貴山猪上神社のページも参照してください

※ 猪上神社旧社地である文言を水屋周りで探したが見つからず、複数の寺関係者に聞いても不明。剣鎧護法堂の付近にまず移転して現在地に再度移転したことまでは分かっている。最初の移転が明治維新後の神仏分離によりなされた。信貴山地域の氏神として大切に守られている。例祭前日に出会った毎朝の「おっぱん」を運ぶのはお寺本坊の職員さんであった。

この水の周辺を探索したが猪上神社旧社地の痕跡(石碑や文字列など)は見つからず、早朝、まだ人気の無い境内は大きなスズメバチの天下であった。水は出ていなかったが、水鉢に近づくたびに鉢のスクランブルがあり、水屋を出るまで繰り返された。他方問う周辺、空鉢堂への登山道の多数の社も蜂のスクランブルが飛び交っていた。もちろん頂上の空鉢堂はとくに厳重な警戒網が敷かれていたので、皆さんもご注意ください。

f:id:n-hiko:20130908133018j:plain

信貴山一切経蔵(経堂)

一切経蔵(いっさいきょうぞう)
仏教の全ての経典を収めた回転する経厨子を納めている。一回転させると全ての経を読誦した功徳が得られるとされる。一人ではとても回せないが、大人3人が協力すると回すことが出来る。壁面には仏教伝来を描いた壁画がある。

経堂
三間四方。宝暦十三年(1753)三月消失。寛政八年(1796)再建。
f:id:n-hiko:20130908131039j:plain
早朝はここも霊宝館も開いていませんでした。
f:id:n-hiko:20130908131048j:plain

信貴山霊宝館~宝蔵(飛倉館)

霊宝館(れいほうかん)
本堂横にある小さな建物。国宝『信貴山縁起』の複製(原本は奈良国立美術館に寄託)のほか重文金銅鉢や鎧兜、町指定菊水の旌旗(せいき)などを見ることができる。300円。

<展示物>
国宝「信貴山縁起絵巻」(三巻)は復刻本を展示
兜・鎧袖・説に楠木正成の遺品(国指定重文)
喉輪・説に護良親王所要(国指定重文)
金銅鉢・延長七年(929)銘(国指定重文)
兜跋毘沙門天像(県指定重文)
信貴水瓶(鎌倉時代作)
聖徳太子十六歳孝養像
勅額(後醍醐天皇筆)
舞楽面(説に平安時代作)
笙(楽器)
楠公の書状
武田信玄の寄進状
太刀
松永秀久の寄進状
仏像・仏画・仏具類多数
f:id:n-hiko:20130908125029j:plain

宝蔵(飛倉館)
一山の宝物庫で、現在はイベントホール、貸しホールとして使用されて飛倉館と呼ばれる。象鼻は寅の頭になっている。宝物類は、霊宝館に移して保管展示されている。飛倉堂と呼ぶ職員さんもいた。
f:id:n-hiko:20130908132526j:plain
飛倉館
f:id:n-hiko:20130908132534j:plain
宝蔵
いかにも宝蔵にふさわしい頑丈な扉である。

f:id:n-hiko:20130908132600j:plain
不動堂
飛倉館に向って左に隣接している。

信貴山虚空蔵菩薩堂

虚空蔵菩薩堂(こくぞうぼさつどう。元求聞持堂ぐもんじどう)
元禄十三年(1700)生母桂昌院(けいしょういん、寛永4年1627~ 宝永2年1705、江戸幕府3代将軍徳川家光の側室で、5代将軍綱吉の生母。通称はお玉の方)により起工、翌十四年に完成。昔日に弘法太子・覚鑁上人が修した元求聞持堂の本尊虚空蔵菩薩を安置する。(入試合格祈願)

虚空蔵菩薩 (こくうぞうぼさつ)、梵名アーカーシャ・ガルバ (आकाशगर्भ [Âkâśagarbha])またはガガナ・ガンジャ(गगनगञ्ज [gaganagañja])は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。
三昧耶形は宝剣、如意宝珠。種子(種字)はタラーク (Trâḥ)。真言は「オン バザラ アラタンノウ オンタラク ソワカ」[1](Oṃ vajraratna, Oṃ trâḥ svâhâ)や、記憶力増進を祈念する修法「虚空蔵求聞持法」で用いられる「ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」(Namaḥ Âkâśagarbhâya, Oṃ arika mari muri svâhâ) などが知られる。
「虚空蔵」はアーカーシャ・ガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。 元々は地蔵菩薩の地蔵と虚空蔵は対になっていたと思われる。しかし虚空の空の要素は他の諸仏にとって変わられた様で、また地蔵菩薩の独自の信仰もあり、対で祀られる事はほぼ無い。
空海が室戸岬の洞窟 御厨人窟に籠もって虚空蔵求聞持法を修したという伝説はよく知られており、日蓮もまた12歳の時、仏道を志すにあたって虚空蔵菩薩に21日間の祈願を行ったという。また、京都嵐山の法輪寺では、13歳になった少年少女が虚空蔵菩薩に智恵を授かりに行く十三詣りという行事が行われている。 胎蔵曼荼羅の虚空蔵院の主尊であり、密教でも重視される。
像容は右手に宝剣左手に如意宝珠を持つものと、右手は掌を見せて下げる与願印(よがんいん)の印相とし左手に如意宝珠を持つものとがある。後者の像容は求聞持法の本尊で、東京国立博物館蔵の国宝の画像はこれに当たる。
彫像の代表例としては、奈良県大和郡山市・額安寺像、京都市・広隆寺講堂像などが挙げられる。 奈良県斑鳩町・法輪寺の木造虚空蔵菩薩立像は7世紀にさかのぼる古像だが、当初から虚空蔵菩薩と呼ばれていたかどうかは定かでない。また、法隆寺の百済観音像は宝冠が見つかった明治時代前半までは寺内で墨蹟銘から「虚空蔵菩薩像」と呼ばれていた。(wikipedia

f:id:n-hiko:20130908121913j:plain

f:id:n-hiko:20130908121947j:plain

信貴山行者堂~多宝塔~鐘楼堂

信貴山山頂の空鉢護法堂や信貴山城から朝護孫子寺の方へ下ると最初に出会うお堂が行者堂。そして多宝塔、すぐ向いに鐘楼。鐘楼のすぐ後ろには虚空蔵堂があるが、高低差があり、多宝塔との間にある奥の院参道をぐるっと迂回して石段を降りなけれならない。虚空蔵堂の石段の下には水屋などがある少し広い平地がある。建て込んだ境内の中で広場と読んでよいような場所である。下からいえば水屋でアルミポットに水を入れて空鉢護法堂にお参りをするとき、多宝塔から行者堂前に至り、さらに山頂への登山道を登るというロケーションになっている。

行者堂(ぎょうじゃどう)
多宝塔の後方高所にあり、修験道の開祖役行者を本尊とする。江戸時代に神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ)の神号(しんごう)を与えられている(誰から?)。現在は真言系の諸堂が並び、数少ない修験道系の建物である。
役小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。姓は君。修験道の開祖とされている。後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになった。実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。
f:id:n-hiko:20130908112126j:plain
役行者を神として信仰する修験道の流行が各地に行者の足跡を見つけ、参詣の堂が建つ。

f:id:n-hiko:20130908112242j:plain
早朝、まだ薄暗いときに拝んだ後、中を覗くと神変大菩薩の鋭い眼光がこちらを睨んだ。
お堂の中を見ようとしたら、心の中を見られた。

多宝塔(たほうとう)
造りは二間四面、祭壇に大日如来を安置。坐像一丈三尺、説に恵心僧都(源信942~1017、天台宗の僧)作とすることから、古くは天台宗とのかかわりが窺える。元禄二年(1689)千手院快誉上人の代に建立。棟札に高安郡教興寺村棟梁藤原狛八兵衛ほか七名を記す。降って明治十五年(1882)修復。
「大和名所圖會」(寛政3年(1791)刊)信貴山朝護孫子寺
現在の多宝塔の位置に三重塔が描かれる。明らかに三重塔であるが、多宝塔の描写間違いか。(しかしこの絵図でのかかる類の間違いの類例がないので三重東であったのであろう。)あるいは「日本の塔総観」(近畿地方篇、増補改訂版)中西亨、昭和48年では「山と名所圖會では今の位置に三重塔を描いているので、その後再建された時多宝塔に建替えられたのであろう」と云う。また年代は不明ながら、以上の理由で江戸後期の建立であろうとする。(大和信貴山朝護孫子寺・多宝塔・玉蔵院三重塔・三重小塔http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_sigisan.htm 「ガラクタ置き場」s_minaga )
天台宗から真言宗にかわり建築様式にどのような違いがあるのか???
※多宝塔横から奥の院への参拝道が始まっている。ほとんど舗装された歩きやすい道で、寺関係者の車が通る程度の山道。途中墓地があり、寺関係の古い墓石も見ることができる。
f:id:n-hiko:20130908112422j:plain
この写真には多宝塔の左後方、鳥居道の奥に行者堂がちっちゃく写って見える。くっつくように建っている。この朝護孫子寺は険しい斜面に堂塔が離れ離れに密集している。

f:id:n-hiko:20130908112818j:plain
奥の院参道から多宝塔を望む。

f:id:n-hiko:20130908112843j:plain
向かい合って建っている鐘楼堂から他方とを拝む。ここも僕にはとても落ち着く場所。

f:id:n-hiko:20130908112926j:plain
多宝塔の山側には見たことの無いようなかわらの葺き方を観た。丸瓦の縦の流れを平瓦が横切る

f:id:n-hiko:20130908113039j:plain
多宝塔を仰ぎ見ると青空に美しい、が青く写っていないのはなぜ?写真は難しい

鐘楼堂(しょうろうどう)
建物は一丈四方に袴腰を付す。貞享四年(1687)再建。梵鐘銘に信貴四郎とあり。南部遠明の家臣・田部井十郎が鋳造して奉納した。多宝塔の向かい、多宝塔に登る石段の右側上方にある。
f:id:n-hiko:20130908113113j:plain
ほとんど人気の無い鐘楼堂。でもいい感じ。

信貴山 開山堂~命蓮塚

開山堂
f:id:n-hiko:20130811115649j:plain
開山堂は耽美な三間四方の宝形造。享保十七年(1722)建立。願主は河内国本堂村教心坊(盲人)他二名。道内の岩窟に聖徳太子像・弘法太子像・命蓮上人像・歓算上人像を奉安。盤上に四国八十八ヶ所の本尊を配す。
f:id:n-hiko:20130811115703j:plain
3分間の堂守さんの説明を聞いてから四国八十八霊場めぐりを堂内でさせていただいた。四方で蝋燭を水盤に浮かべる美しい作法だった。

f:id:n-hiko:20130811115944j:plain
お堂の外側をぐるりと拝観した。立派な宝形造り、連想するは夢殿。寺院建築の中で宝形作りや六角堂についていろいろ眺めてみたいなぁ。気づくと道標、中興の祖の墓所らしい。
f:id:n-hiko:20130811120218j:plain
開山堂南西後方に命蓮塚があり、ここに命蓮が葬られている。
径数m、高さ1m程の高まりを室町期の一石一尊十三仏石碑が廻り、その周囲に石柵が設けられている。丈夫には成福院の石室十三仏を模した石室仏があり、命蓮上人墓所の自然石碑が建つ。中興の祖、命蓮上人の墓所として大切にされる。
f:id:n-hiko:20130811120257j:plain
そのすぐ左手には小礫を集めた小さな高まりが、命蓮の姉、尼君の墓所といわれる。

朝護孫子寺を現代に生きるエネルギッシュなご利益のテーマパークだと思ったが、命蓮墓については静かで落ち着き、気持ちのよい場所だった。

信貴山 空鉢護法堂

信貴山朝護孫子寺はおもしろい。
鉢にこだわりがある。

国宝信貴山縁起絵巻全三巻が有名だが、その絵巻の一部を霊宝館で見ることができる(原本は奈良国立博物館に寄託、里帰り公開もある)縁起といえば社寺の創建にまつわる物語が相場であるが、この縁起に聖徳太子が出てこずに中興の祖命蓮の霊験譚となっている。
f:id:n-hiko:20130810140917j:plain
第1巻 飛倉の巻>命蓮が神通力を行使して、山崎の長者のもとに托鉢に使用する鉢を飛ばし、その鉢に校倉造りの倉が乗って、倉ごと信貴山にいる命蓮の所まで飛んできたという奇跡譚である。空を飛んでいく倉、驚いて見上げる人々などが絵巻特有の横長の画面を駆使して描かれる。
これに由来して祀られたのがこの空鉢護法堂

ファンタスティックな物語が現実に見えるようにしてあり、夢であふれた境内はテーマーパークを連想させる。

霊宝館の重文に金銅鉢もある。

空鉢堂へのは入り口は多宝塔の上(西)、行者堂の手前にあり、九十九折れした山道の石段がはじまり、その石段には千本鳥居の始まりが見える。
f:id:n-hiko:20130810142114j:plain
ちょっと見えにくいが最初の折れ曲がりが小さな展望台となっていて普段なら景色がよい。この日は大気汚染が北大和を覆っていたのと、早朝の山の水蒸気で遠くは望めなかった。写真には自由に使える杖の案内が写っている。ぼくは自分の2本杖がある。
f:id:n-hiko:20130810142746j:plain
黒い雲が行ったので振り返ると、やはりガスっているが、その道だけでも美しいと感じられて来て好かった。
鳥居ついでに少し困った事態になったことを告白すれば、登りはお辞儀しながら登るから何の問題もなく風情があるなどと喜んでいた鳥居、帰途の降りとなると巌と立ちはだかる。まるで両腕を広げるいじめっ子のように。つまり背が低い。お辞儀しても頭にあたる鳥居があるのだ。怖くて怖くて、恐ろしい所と化した。これは自分の何かに対する神の気持ちか。そう思い始めるとよけい怖くなった。腰も痛くなったし、昇りよりも息が切れるのだ。
f:id:n-hiko:20130810143622j:plain
ようやく山頂、空鉢堂到着。拝殿前が狭く小さいが長谷寺のような舞台になっていて、山々の間に堂塔などの風景が見える仕掛けがあるのだろう。今日はガスで望めないが、パンフレットには「一服の清涼剤」と謳っている。持参の清涼飲料を飲んだ。
鉢にこだわりといったが、この山道と頂上に巨大なオオスズメバチや大小の蜂が縄張りを作っている。通過するときたびたび接近しては出て行けと警告するのでご注意。黒色の衣服を避け、脅かさなければいいのでしょう、ぼくは一度も刺されなかった。ただ、あまり強く警告する祠にお賽銭を入れるのはあきらめました。開山が堂塔を開く前はこのような中で修行し食し寝たのだからすごい。
空鉢堂の本尊は龍王のミーサン。賽銭箱の向こうの台にシンボルが三尊のように置かれている。これらは本尊ではなく、本尊は正面の本堂の中に安置されているはずだ。
f:id:n-hiko:20130810144939j:plain
鳥居の向こうが本殿かと思って除いたら、この建物は拝殿のような感じであった。こちらが拝殿なら背後の建物は待合所か(ベンチが設置してあった。登山の避難所にもなりそう)。
f:id:n-hiko:20130810145440j:plain
横から覗くと本殿は石造祠で拝殿とビニールの屋根でつながっている。
f:id:n-hiko:20130810145611j:plain
本殿は山頂の中の山頂にあり、周りからも拝むようになっている。これなら例えば20人の団体で来ても一緒に拝める。
f:id:n-hiko:20130810145828j:plain
拝んでいるような敬虔な虫君に出会った。オオスズメバチニ襲われるなよ。お互い無事に帰ろうな。
f:id:n-hiko:20130810145943j:plain
八重比売とはどなた?八重畳といえば「平群」らしいが、その枕詞の生成とこの神様となにかご関係があるのかしら?それとも平群の女神として奉っているのだろうか。
早朝に初めてのところに単独で歩くと、妄想が広がる一方だ。
f:id:n-hiko:20130810150238j:plain
これは鉢のような宝珠のような神様であるが、よく観て、右へ動いてない?もうすぐ少しはみ出すよ。奇妙。
そういえば…
f:id:n-hiko:20130810150453j:plain
先程の拝殿か待合所か避難所のミーサンも動いているように見える。奇妙。
奇妙が続く、妙連、命蓮、駄洒落でした。
これで、はじめての空鉢堂は終わりです。

f:id:n-hiko:20130810150905j:plain
この空鉢堂の手前に参詣道に向けた石碑がありましたので、見に行くとなんとここが信貴山城址だった!じゃここが昔のまま、土塁や石垣、掘割など最高に残っているという山城ではありませんか。
出てきたときはまだ朝ボラケ、陽も高く昇りはじめ腹も減ったので、朝飯に帰ることにする。信貴山城よまた会おう。
f:id:n-hiko:20130810151305j:plain
平群町教委の案内板でも確認、空鉢堂は信貴山城址であった。どちらが先か、そりゃ命蓮が先で平安時代、松永久秀が焼いた信貴山城はのちの戦国時代のはず、う~む。
古代高安城飛鳥時代
あまりの暑さ、室温34度を越え始めたの。縮小しがちの脳みそが沸騰し始め、わけがわからんようになってきたので、おしまい。

彦助の羽根建祭@カフェ工場跡(東大寺戒壇院の北)

f:id:n-hiko:20130808161759j:plain
彦助からメールが来た。東大寺の近くで瓦の粘土で鍾馗さんをつくろうというイベントをやっている、と。行ってみた。東大寺の焼け門の中にこんな素敵なカフェがあるなんて気づかなかった。進入路正面に大きな民家の木の骨組み模型がどんと座っていた。その右が工場跡のカフェ、左が同じく工場跡の洋服屋さん。今日は右のカフェ工場跡、門には小さな白木の看板があった。
f:id:n-hiko:20130808161257j:plain
工場跡の門は閉まり横の小口から入ると、暑い夏日に涼しいミストが降ってきた。
f:id:n-hiko:20130808161317j:plain
ワープロでフォントの修飾で影つき文字を見出しに使ったりするが、この「工場跡」の三文字は浮き上がっていて夏の灼熱の太陽がくっきり影を描いていた。
ミストのカーテンをくぐると左右と正面に建物があり、その隙間が通路になっており、そこに受付のテーブルがあった。
f:id:n-hiko:20130808162228j:plain
正面の建物の屋根を彦助が古い瓦のまま再生したらしい。うん、立派な屋根に見える、しっかり仕事しておるな。入場料の500円はドリンクがついていた。持ち出しのイベントやね。
f:id:n-hiko:20130808162511j:plain
左官コーナーで使われる壁の芯になる素材の組み立て。室内の空気を浄化する土壁は、その機能が働くには十分な厚さが必要だとか。そのため考案された壁の芯。
f:id:n-hiko:20130808162747j:plain
畳編みのコーナーには博学の職人がいた。面白かったいろいろお話してくれて、参考書や実物の教材も十分用意してあった。
なんと平群の枕詞である「八重畳」の写真を見せてくれた。感動。
f:id:n-hiko:20130808163057j:plain
彦助のコーナーにはあまり作品が展示されていなかった。数は少ないが面白い作品がいくつか目に入った。
f:id:n-hiko:20130808163218j:plain
後に残す作品よりも子どもたちが粘土を触り、力を入れてこねたり投げたりつぶしたりして遊ぶ自由にポイントを置いているように見えた。
f:id:n-hiko:20130808163409j:plain
この子どもの笑顔、彦助の笑顔、いいイベントだと感じた。
未来を託す子どもたちに木の温もり、土の気持ちよさ、畳の草の匂いを感じてもらい、楽しいイメージとして記憶されるといいなぁ。
f:id:n-hiko:20130808163919j:plain
穴の開いた板と棒4本を磨いて組立てた。小さな椅子を作るコーナーだが、大人が一人で参加するのは珍しい。さいごに楔を渡され、写真に撮った。ぼけてますね。これどうするのか分からない。したの写真の客の頭に黒い線が見えるが、それが楔の断面。突き出した客の頭にある溝に薄い楔を打ち込む。鋸で出っ張りを板の面で切り落とす。さいごにやすりで磨いて完成。約10分。楽しかった。この小椅子77kgの体重をかけてもびくともしない。本物の椅子。板の面積が小さいので、子ども用だが、使えないこともない。ありがたい。
f:id:n-hiko:20130808164725j:plain
カフェ工場跡平面図
f:id:n-hiko:20130808164806j:plain
http://futorumin.seesaa.net/
f:id:n-hiko:20130808164820j:plain

有限会社羽根建築工房
http://hanebou.com/
半日楽しく遊ばせていただきありがとうございました。

北山十八間戸(きたやまじゅうはっけんこ)

奈良市川上町454
f:id:n-hiko:20130804140906j:plain
東大寺から京街道を北へ行くと奈良坂となり般若寺や少年刑務所がある。そのすぐ近くに北山十八間戸を見つけた。今までこの辺りと聞いていたので、何回か道すがら探したが分からなかった。今日は彦助のイベントの帰り道、ラッキーだった。
f:id:n-hiko:20130804140207j:plain
鎌倉時代の中頃、西大寺の僧忍性が当時不治難病の患者救済のため、北山(奈良の北の山という意味か)に宿を設けたもので、はじめ般若寺の北東に建てられたが、永禄十年(1567)に消失。
f:id:n-hiko:20130804140929j:plain
その後、寛文年間(1661~73)に、東大寺興福寺の堂塔を南に展望し、不幸な人々の養生にふさわしい今の地に移転し建築された。建物は鎌倉時代の遺風を受け継いだもので、十八の間数のほかに仏間を設け、裏戸には縦に「北山十八間戸」と刻まれている。
f:id:n-hiko:20130804140838j:plain
慈善事業の遺跡として著名。国指定史跡。
f:id:n-hiko:20130804140950j:plain
中に入れるのだろうか。はいって忍性の思想と実践をじかに感じたいものだ。

おまけ
忍性墓。生駒市竹林寺にある。
f:id:n-hiko:20130804141851j:plain
忍性(1217~1303)は、西大寺の叡尊上人の弟子で、戒律復興と社会福祉事業に努めた僧である。
この寺に忍性憧れの行基菩薩の墓(国指定史跡)があるから、ここに葬られたいと強く望んだのであろう、分骨され、鎌倉と大和郡山市の額安寺とここに埋葬された。
行基墓。
f:id:n-hiko:20130804142458j:plain
忍性の蔵骨器は八角の石筒に入っていたが、行基の蔵骨器も八角の石筒に入っており、忍性の行基に対する思慕の念の強さが指摘されている。

行基信仰が鎌倉時代に起こり、そのうねりの中で忍性の天分が開花したのであった。行基信仰についてはまたいずれ調べてみたいと考えている。

春琴!

おもしろかったぁ

若い頃、ナオミが主人公の小説に夢中になっていた時期があった。まさか春琴がその小説じゃないだろうとは思っていたが、違った。

 

青空文庫を探したが、そもそも谷崎潤一郎が無い。まったく無い。

評価が低いはずは無いし、高すぎるということがあろうか。

いやいや、今日になって調べてみたら「著作権の消滅した作家名一覧」に載っていない?

当然載っていて荷風などと古典中の古典と思い込んでいたのに、無知にもほどがある、ってことやね。

永井荷風もお仲間でした、昭和34年1959年死去

谷崎潤一郎 昭和40年1960年死去

著作権の消滅を死後50年とする青空文庫に入らない。

なぜかずっと大昔の明治の文豪と同列に扱っていました

 

ナオミ、じゃない、春琴の異常な愛とサスケの異常な愛、それがまことに受け入れがたく受け入れている自分がありました。しまいにはあれこそ深い愛というものではないかとうなづいて涙する。

 

私鉄で奈良からこの駅前のホールまで行くのが簡単だった。快速急行三宮行きに乗り、今津で阪急線乗換え、終点が最寄り駅の西宮北口。これじゃ、県立芸術文化センターに行くのが病みつきになりそう。

 

駅前で撮った写真を昨日つぶやいたがそれをここに乗せるのが難しい(なんで?)。ネットからどなたかは存じませんが同じ写真を拝借いたします、ごめんなさい。すばらしき愛する深津絵里に免じてお許しあれ。

f:id:n-hiko:20130728105702j:plain

国立文楽劇場

文楽をこの劇場で見るのは初めてだ。

http://www.ntj.jac.go.jp/bunraku.html

友人から頂いたチケットの席は最後列、なのに近い。何人座れるのかなぁ、

上のページで確認すると753。人形芝居はこの程度がいい。後ろでも近い。

音はマイクを通して拡声しているのだろうか、マイクは見えない。太棹の低音域もはっきりと聞こえる。減衰していない。いろいろな技がダイレクトに伝わる。太棹一本のサウンドに心臓が引っ張られたり絞られたり、う~ん、こりゃ参った。

人間国宝の竹本住大夫(たけもとすみたゆう)が登場、TVの文楽入門で馴染んだお方、若々しく悪役の台詞、悪が悪で無いような、人情があるようにも思えてしまうのが憎い。隣のばあさんも顔を見た瞬間おおきな拍手、周りの感動が伝わる劇場やな。あ、ばあさんじゃなく嫁はんでした。まぁ、どうせこれは読まんから大丈夫、大丈夫。

義太夫の紹介をする拍子木を打つ黒子の声は拡声していないからか、聞こえるが少しの拍手でもマスキングされる。もっともこの夜の黒子の皆さんが小声なのかもしれないが。

f:id:n-hiko:20130726100650j:plain

出し物は「夏祭浪花鑑」面白かった!人形芝居が面白いことはとっくに知っていたけど、この劇場で観る人形浄瑠璃は最高やわ。

今宵フィナーレの殺しの場面、延々と続く親殺しの場面、これは歌舞伎の舞台TV中継を見たことがあり、あのときの心の動きを思い出した。あれも面白かったけど、人形の方もなかなか生々しいではありませんか。

駆け去る場面などタンタンと地面を蹴り初め、アクセル&デクレッシェンド、しかも舞台袖に走りこみフェードアウト。これ大好き。歌舞伎で生の役者がどう演じていたか思い出せまへん。とにかくあの走りが人形浄瑠璃って感じじゃありませんか。低俗?はっはっは

それに台詞が80%は理解できる。(字幕が天井に出るが、字幕を観ても分からん古語がいくつか。)関西弁は大事にセナあかんとあらためて。ただ、聞き間違いはいくつもありそう。

プログラムを買ったらシナリオまで付いてきた!得した気分。それを観ると最初から聞き違えていたではないか。

住吉鳥居前の段

住吉の浜辺を春の名に高き、この台詞を「住吉の浜辺を春の波高き」と聞いてしまっておった。もしこれがTV録画であったらもう一回聞きなおし、自分の耳の特性と義太夫の発音の特性について経験を深めることができるのだが、まぁ、ナマではしゃーないなぁ。

あぁ面白かった。

修行代 朝護孫子寺

七夕ですね。彦星が見られますでしょうか。(おととい磔磔で彦ライブ!を見ましたので今年はそれで満足です)

一念発起ということでもないのですが、信貴山朝護孫子寺にお参りに行きました。

朝5:45から始まる「修行代」の見学をさせていただきました。

早起きして出かけますと朝護孫子寺の駐車場は閉まってはおりませんでしたが、無人で車もなく静かでした。信者さんが多数集まるかもしれない、おまけに梅雨の長雨がやんでいる土曜日なので、覚悟して出かけましたが、少し拍子抜けしました。

iセンターや開運橋の脇を抜け道なりにあがりますが、いつも思うのですが、ここはテーマパークのように堂宇や石仏、寅の張子ほかいろいろなものが存在感を示して所狭しと並んでおり、遠くに見えた本堂にどのようにつながっているのやら、まだ十分時間はあるが、それでも間に合うか不安になって急ぎ足で上りました。

本堂前にて礼拝しお守りの方に「修行代」はここでいつもどおり始まりますか、ここで見学させていただいてよいかお尋ねしたら、本堂の中に招いてくださいました。

あわててきたので失念したのが、珠数と般若心経。なんとここでの般若心経は読経と同じぐらいの音量で、つまり同じ価値で太鼓などのリズムセクションが演奏されるのでした。大般若経でしょうか、大声で叫びながら手品のように左から右に経典をめくり流し、バンバンたたきつける。あまりのエキサイトに目が開いたままとなりました。ま、まだ朝6時ごろというのにこのエネルギーはすごい。このお寺はすごいと心から感心しました。

f:id:n-hiko:20130706104901j:plain

 

(今日は午後に斑鳩ホールで面白そうな講義があるのでいきます。

 「竜田川の自然と歴史」第3回 竜田川今昔ー竜田城と竜田川付替の歴史ー
中世末、竜田城の築城にともなって、竜田川では、大規模な河道付替えが行われました。その後の土地利用など、竜田川の自然景観の変遷をたどります。
日時 7月6日(土)午後2時~4時
場所 いかるがホール研修室3・4
講師 平群町教育委員会参事 村社 仁史氏定員 50名(先着順)