北山十八間戸(きたやまじゅうはっけんこ)
奈良市川上町454
東大寺から京街道を北へ行くと奈良坂となり般若寺や少年刑務所がある。そのすぐ近くに北山十八間戸を見つけた。今までこの辺りと聞いていたので、何回か道すがら探したが分からなかった。今日は彦助のイベントの帰り道、ラッキーだった。
鎌倉時代の中頃、西大寺の僧忍性が当時不治難病の患者救済のため、北山(奈良の北の山という意味か)に宿を設けたもので、はじめ般若寺の北東に建てられたが、永禄十年(1567)に消失。
その後、寛文年間(1661~73)に、東大寺・興福寺の堂塔を南に展望し、不幸な人々の養生にふさわしい今の地に移転し建築された。建物は鎌倉時代の遺風を受け継いだもので、十八の間数のほかに仏間を設け、裏戸には縦に「北山十八間戸」と刻まれている。
慈善事業の遺跡として著名。国指定史跡。
中に入れるのだろうか。はいって忍性の思想と実践をじかに感じたいものだ。
おまけ
忍性墓。生駒市の竹林寺にある。
忍性(1217~1303)は、西大寺の叡尊上人の弟子で、戒律復興と社会福祉事業に努めた僧である。
この寺に忍性憧れの行基菩薩の墓(国指定史跡)があるから、ここに葬られたいと強く望んだのであろう、分骨され、鎌倉と大和郡山市の額安寺とここに埋葬された。
行基墓。
忍性の蔵骨器は八角の石筒に入っていたが、行基の蔵骨器も八角の石筒に入っており、忍性の行基に対する思慕の念の強さが指摘されている。
行基信仰が鎌倉時代に起こり、そのうねりの中で忍性の天分が開花したのであった。行基信仰についてはまたいずれ調べてみたいと考えている。