龍田比古の奥山日記

愛する人を追い、斑鳩、三郷、平群、生駒、安堵…龍田川流域など大和を歩いている。気持ちのいい石室によこたわるかとおもえば、万葉のイリュージョンに垣間見たり、十一面観世音が暗号を呟く。…生駒郡という現代の地名を旧平群郡と読み替えると、いろいろなことが見えてきました。

伝香寺

伝香寺は奈良市小川町にある律宗の古刹で、百合祭りで有名な率川神社のお隣、境内の幼稚園は学校法人伝香寺学園いさがわ幼稚園という。この日だけご開帳される子供の守り仏(はだか地蔵)を拝観するために出かけた。立派な門構え「表門」。伝香寺に、いざっ!

まずJR奈良駅前の奈良市観光案内所でご開帳を確かめようと思った。あわよくばその他の貴重な情報を頂けるかも知れないし。でも残念ながら伝香寺が分からず、独りだけ知っている男の人が出てきてくれたがお地蔵さん公開のことも知らなかった。でもこの建物は好きだ。旧駅舎が壊されず曲がりなりにも残された。中に人がいるだけでありがたい。

スクータは本堂裏の駐車場に無料で置かせてくれた。この本堂は国の重要文化財。車の進入路に入り口と塼仏(塼は「土+専」)があった。

まるで子どもが作ったようにおおらかなお顔

いいね

入る前からこのお寺が好きになってしまった。電車で来ていたら入り口の奥の駐車場など見なかったかもしれない。
最初に迎えてくれたのは椿、この見せ方が美しい。

後で分かるが「大和三名椿」と東大寺開山堂糊こぼし・白毫寺の五色椿に並び称される散り椿はとっくの昔に散っていた。早すぎる。
本堂の通用門から入って本堂横に椿のこんもりした緑があった。小さな実をいっぱい付けている。

伝香寺開創の願主となった筒井順慶法印の母芳秀尼(ほうしゅんに)が堂前に供えた椿が存続(三代目)しています。この椿は色まだ盛んなとき、桜の花びらの如く散る椿で、その潔さが若くして没した順慶法印になぞらえ「武士椿」(もののふつばき)の名を得たといわれます。江戸時代末期に唐招提寺長老と伝香寺住職を兼ねた宝静(ほうじょう)長老は椿の愛好家で奈良三名椿を好んだと云われています。(南都伝香寺『参拝の栞』)

表通りに面した塀の内側に筒井順慶の五輪塔が立っていた。

その並びに真新しいお堂「順慶堂」

中には僧形の筒井順慶像が安置されていた。「筒井順慶法印像」

伝香寺は戦国時代の大名筒井順慶法印(天文18(1549)〜天正12(1584))の香華院(菩提所)として建立されました。諸記録によると、この地は奈良時代に唐より来朝され、唐招提寺を創建された鑑真大和上の高弟思詫(したく)律師が天平宝亀年間(770〜780)に、故国を偲んで唐風の庵を結んだ処で、実円寺と称されていました。爾来八百有余年の星霜を経た天正13年(1585)順慶法印の母芳秀尼は、若くして没した息子の菩提を弔う為、香花の絶やさざる寺院の建立を発願、正親町(おおぎまち)天皇の勅許を賜り、唐招提寺泉奘(せんじょう)長老を請じて実円寺を再興「表門」(県文)、本堂(重文)が現存」、古額を改め伝香寺と号しました。(同上『栞』)


収蔵庫の前に陽気に誘われた満開の桜(?)その向うは庫裏

重文はだか地蔵様を正面に。ご神木の立派なモチの木で重文の本堂が見えない

普段はこの境内が子ども達の運動場、年に一度の公開日は賑やかで平和な子ども達の声しか届かない。

写真で観て一目惚れしてしまったお地蔵さん、なんて綺麗なんやろう。国宝級。
来年もまた拝みたいぼくのお地蔵さんである。
胎内仏が本堂に展示されていたが、長谷寺型の十一面観音立像で失礼ながらpentaxのpapilioで拝観、大きく拝観する手が震えてきます。こんなに小さな観音様がこんなに美しく造れるものだろうか、奇跡の仏像だと感じなかなか去りがたく他の参拝者に遠慮しつつ何度も何度も拝ませていただいた。

脇侍のようにお地蔵さんの左に立っておられるのは見るからに聖徳太子。「南無仏太子像」かなり年少のお姿。
嶋左近が筒井順慶に奉納したものという。
このところわが町、平群という感じで平群に深い縁を思うのであるが、またもやここで嶋左近と出会うなんて
世間は狭い現象か神のお導きか。本人だけが感じる不思議なんだろうか

収蔵庫の前に立つ石造地蔵菩薩立像も味のある素敵なお地蔵さんであった。