龍田比古の奥山日記

愛する人を追い、斑鳩、三郷、平群、生駒、安堵…龍田川流域など大和を歩いている。気持ちのいい石室によこたわるかとおもえば、万葉のイリュージョンに垣間見たり、十一面観世音が暗号を呟く。…生駒郡という現代の地名を旧平群郡と読み替えると、いろいろなことが見えてきました。

往馬比古の平群歴史ウォークがはじまった

初めての平群歴史ウォーク
2013年4月13日(土)9時半
平群駅スタート、宮内庁管理の長屋王墓と吉備内親王墓、三里古墳、船山神社、平等寺春日神社、道の駅(昼食)、平群神社、西宮古墳、消渇(しょうかち)神社、岩床神社、岩床神社旧社地、烏土塚古墳、
16時竜田川駅前解散。
こういうコースプランを作成し、先導してくださったのは地元の観光ボランティアガイドMさん。
参加者は職場の友人Sさんと、彼の親戚Mさん。総勢4名の初老の健脚グループと相成りました。女性陣も必要だと思ったが、男性も含め計画から実施まで期間が少なく、人を誘うのには不十分であったようだ。先約の無かった女性も足をくじいて不参加に。
結果的に素敵なガイドと感受性豊かなわれわれメンバーで中身の濃い、平群に愛着が湧くイベントとなり、けがも無く成功裡に終了することができた。メンバーとガイドの皆さんに感謝です。合掌

なかなかのつわものぞろいとなりました。右が友人で修験者でもあるSさん。中央が平群町観光ボランティアガイドの会のMさん。左は前日に参加が決まったSさんのご親戚Mさん。四人全員平群郡の住人ですが、現住所は写真のお三人が平群町民。

明治時代まで「大平群」とでも申しましょうか、古代の平群郡が残っていました。ガイドMさんの説明地図があればここに掲げるのに、残念。言葉で書くと地理は煩雑、正確に書こうとすればするほど言葉が多くなる。
簡単に言えば平群郡北は北生駒村(後に生駒町に改称→生駒市阪奈道路生駒俵口インターのある俵口町〜小明町あたりまで。
西は信貴生駒山脈、東は平端村(昭和村→大和郡山市)というから近鉄平端辺りまで。
南は今の斑鳩町・安堵町のある法隆寺村・安堵村まで。

この広い範囲が明治まで平群郡だったという事実。法隆寺の北から饒速日命墓のある白庭付近まで南北に続く矢田丘陵は三輪山の麓のイワレの都から眺めると夕日の沈むところが平群の山と呼ばれていたに違いない。平群郡夜麻郷である。
その都で育った倭健命の国偲びの歌(岩波文庫古事記P127)の[平群の山]とはこの斑鳩町から大和郡山市矢田あたりまでの北西に優しく盛り上がる美しい丘陵のことであり、クマガシの葉が緑色をより美しく彩っていたのだろう。家来に勇敢な平群つわもの供を侍らしていたのだろう。
[平群郡]という歴史を習った誰でも知っていそうな言葉を知らなかったので、国偲びの歌が平群の山を指し[国のまほろば]「青垣山隠れる」なかなか具体的なイメージとならなかったのに、スッカリストンと腑に落ちました。法隆寺もまだないし、もちろん法隆寺五重塔も見えなかった時代の法隆寺の山のお話でした。
あの古事記の中で一番好きな歌は平群山の里も駆け巡って育ったであろう倭健の望郷の歌である。倭健にとって大和の国を成立させる重要な要素が平群山であり、平群の子(民、兵)であったのではないか、最も美しいものであったろう。
生駒郡と変わり、矢田丘陵と呼んでいるから余計分からなくなるのであって、地名を平群郡、山を平群山とすれば誰にでもこの美しい歌の真実が分かると思う。

博学ガイドのMさんによると「平端」とは平群の果てという意味だそうです。へぇ、へぇ、へぇ。
古事記の地名譚は面白い。Mさんはまるで稗田阿礼みたいや!


①<吉備内親王墓(きびないしんのうのはか)>生駒郡平群町梨本

吉備内親王墓。長屋王と共に、その埋葬方法等は不明であるが、『続日本紀』には、自経の翌日、生駒山に葬られているとの表現しかなく、現在の治定墓との関係も憶測の域を出ない。「平成24年度観光ボランティアガイド養成講座見学資料。05』平群町教育委員会編(P.2)(以下同書を『見学資料05』と略記)


①<長屋王墓>生駒郡平群町梨本

長屋王墓(ながやおうのはか) 生駒郡平群町梨本
形式=円丘
竜田川の東岸にある直径約15mの円丘である。長屋王天武天皇の孫で、[続日本紀]には神亀六年(729)に生駒山に葬ったとのみ記載され、明確な葬地は示されていない。野淵龍潜の「大和国古墳墓取調書」によれば、明治の中頃に「長屋王墓」は「ナガヲ塚」と呼ばれていたが、埋葬施設等は不明。その後、宮内庁により管理され、現在に至る。近年の周辺の発掘調査により、現在の長屋王墓と後円部が同心円に重なる位置に前方後円墳が確認された。全長は推定で45m、後円部径約30mで前方部を北西に向けた前方後円墳と考えられている。これは梨木南二号墳と呼ばれ、古墳周溝の一部を調査したところ、葺石、円筒埴輪片、須恵器片が出土している。
築造時期は、出土遺物から六世紀前半と考えられ、前方部や後円部の周囲の削平は、平安時代終わり頃から始められていた。梨本南二号墳の時期は長屋王の死亡年代と大きく異なっており、「長屋王墓」の円丘と梨本南二号墳の関係もこれまでの調査では明らかになっていない。『改訂版奈良まほろばソムリエ検定公式テキストブック』(P.106)(以下同書を『奈良通』と表記)


②<三里古墳(みさとこふん)>

生駒郡平群町三里
形式=円墳または前方後円墳 築造=6世紀後半ごろ
 竜田川の東岸、矢田丘陵から南西に延びる尾根上の古墳である。早くに墳丘が破壊されており墳形は明確ではないが、直径20mほどの円墳もしくは全長35mほどの前方後円墳と考えられている。葺石は確認されているが、埴輪は出土していない。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、石室の天井石と側壁の一部は失われていたものの、玄室の奥壁下に石棚と呼ばれる板石による特殊施設が確認された。石棚を持つ横穴式石室には通常、結晶片岩が用いられるが、三里古墳は花崗岩を用い、石棚が低い位置にあるなど特異な点もあるが、石棚の類例は奈良県下では岡峯(おかみね)古墳、槇ヶ峰古墳など少なく、和歌山県紀の川流域に多く見られることから、紀氏との関係が指摘されている。副葬品がよく残っており、金銅製の馬具二組、直刀鉄鏃、須恵器、土師器など多数出土している。『奈良通』(P.106)


平群谷の四国八十八箇所石仏

岩井地蔵堂 砂岩製の阿弥陀如来像は、平群谷の四国八十八箇所石仏の一つで、讃州琴引八幡 第六十八番の銘があり讃岐国(香川県)七宝山神恵院に対応する石仏である。『見学資料05』(p.11)


平等寺船山神社 陽石 すごいですね、そそり立っていますよ。

船山神社
船山神社は『延喜式』「神名帳」にみえるが現在地は式内社である中之宮村の氏神、船山神社(旧社地は東光寺の東側)を、安明地村の氏神、春日神社(東香寺東側)に合祀したものであり、本来の式社内の所在地ではない。現在地は矢田丘陵の山腹斜面を平らにして社殿を配している。急な石段を登りつめると拝殿にいたり、右手前には中之宮村の旧社地より移された立派な陽石(男性のシンボル)が配されている。祭神は、中之宮村で祀られていた船山神と安明寺村で祀られていた春日社の天児屋根尊の二柱の神である。立派な覆い屋内に小ぶりの春日造りの本殿がある。『見学資料05』(P.12)


⑤船山神社 石段


平等寺春日神社 摂社大国主神

平等寺春日神
春日神社は平等寺と下垣内(しもがいと)の両大字の氏神で、この2つの大字は元は1つであったと考えられている。
祭神は天児屋根命で、本殿は春日造極彩色トタン葺きである。改修以前は瓦葺の覆屋があり、檜皮葺であった。
本殿の左手には素地の摂社が並び、それぞれ若宮社、住吉社、大国社、菊理比売社、市杵島社が祀られている。他に手置帆負神、屋船久々能知神、屋船豊受神、彦挟知神も祀られている。
手前にある割拝殿の北側には数枚の絵馬が奉納されている。この一枚に珍しいナムデオドリの絵馬がある。文久元年(1861)に下垣内村奉納の銘があり、雨乞い祈願の満願の日に神前に奉納(順季祝い)する踊りの様子を克明に描いたものである。ナムデオドリは各所で行われた行事であったが、既に途絶えてしまい、平群ではその歌詞だけが伝わっている。踊りの一行は下垣内を出発し、東の神社へ向かい、踊りを奉納する。この絵馬は奈良県の指定文化財の話もあったが、残念なことに新たに彩色が施されてため、指定を受けていない。
また、境内には多くの石灯籠が奉納されており、延宝5年(1677)銘の石灯籠が最も古いものである。広庭の北東には「アビラウーンケン」の梵字を刻んだ角柱(110×30×18cm、紀年銘なし:胎蔵界大日の真言、報身)があり、神社を含めた広い範囲が寺跡だったと考えられている。『見学資料05』(p.15)

平等寺東古墳
本殿のすぐ裏に古墳があり、立地から平等寺東古墳と呼称している。墳丘の上半は削平され、石材が露出している。墳丘は東方から延びる尾根を利用して築造されており、墳丘の東側に区画溝を廻らせた直径12m程の円墳である。
主体部は南西に開口する横穴式石室で、現状は片袖式石室に見えるが、天井石が中に落込んで埋没しており、正確な平面形態・規模等は確認できない。石材の大きさや細長い石室の様子から、6世紀後半〜7世紀初頭頃の築造と見られる。『見学資料05』(p.16)


平等寺春日神社 なもで祭絵馬

平等寺地蔵堂


⑨道の駅 古代米(黒米)と平群産野菜のカレー サラダ付+ドリンクバー(計\1,000)美味かった。
くまがしステーション 自然はカフェ&レスト hanana 0745-45-8511
636-0903 奈良県生駒郡平群町大字平等寺75−1
営業時間9:00〜18:00


⑩路面の道標タイル。トラと法螺貝>信貴山役行者(千光寺など)のコース上にあるのかなぁ?


平群神社説明板と本殿


⑫消渇神社の拝殿には祈願の土団子を供える棚が備わっている。


⑬石床神社の本殿。覆い屋の柱の位置がずれている。向かって左の社の桧皮葺がユニーク


⑭これが石床神社旧社地のご神体のイワクラ。巨石信仰のご神体として存在感がある。イワフネ神社と並ぶすごさだ。


⑮烏土塚古墳、本日のメインイベントでフィナーレを飾る国指定の史跡。平群谷最大の前方後円墳

烏土塚古墳(うどづかこふん) 生駒郡平群町春日丘
形式=前方後円墳 築造=六世紀後半ごろ
竜田川の右岸、生駒山地より延びる廿日山丘陵上にある前方後円墳で、全長約60m、前方部を北に向けている。埋葬施設は、花崗岩の巨石を用いた両袖式の横穴式石室で、全長14.2m、棺を納める玄室は長さ6mである。玄室奥と羨道部に組み合わせ式の石棺が収められていた。玄室の石棺東側面には斜格子文の先刻が見つかり、県内での石棺装飾の数少ない類例である。石室は何度も盗掘を受けていたが、銅鏡、金銅製馬具、象嵌をもつ太刀、鉄鏃、刀子(とうす)、耳環、ガラス小玉など多数の遺物が出土した。また、石室の前庭部に人物や家形埴輪などの形象埴輪が須恵器の甕や子持ち器台とともに出土し、機内での埴輪祭祀の終焉段階の資料として重要である。『奈良通』(p.107)


⑯われわれが中で見学しているとご近所の親子が石室に入ってきた。幸運な子ども、その幸運を感じたのか撮ってくれと前に立った、パチリ。

平群町観光ボランティアガイドの会
生駒郡平群町福貴1037-2あすのす平群
0745-46-1120