龍田比古の奥山日記

愛する人を追い、斑鳩、三郷、平群、生駒、安堵…龍田川流域など大和を歩いている。気持ちのいい石室によこたわるかとおもえば、万葉のイリュージョンに垣間見たり、十一面観世音が暗号を呟く。…生駒郡という現代の地名を旧平群郡と読み替えると、いろいろなことが見えてきました。

矢田丘陵と大和棟

毎日見えてしまう生駒山。麓で暮らすと意識すらしない。

まして龍田川左岸矢田丘陵麓に住むと矢田丘陵はもっと意識化できない、この丘陵はいわば土であり水であり風、空気そのもの。

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生駒山を主峰とする生駒山系と矢田丘陵に挟まれた生駒谷そして平群谷、ここにうずまった歴史や文化に気づきだした。

今までの自分だけの狭い世界ではない、時代を超えた人とのつながりができるかもしれない、そんな予感で落ち着かない。

国道308号線から眺める山(上の写真)は円錐形の富士山のような神名備には見えない、なだらかで穏やか優美な生駒山。足元の矢田丘陵はかつてたたみこも平群山と呼ばれ、歌枕であり歌垣の山里であり狩場であり胸をときめかし憧れの場所だったようだ。

最近まで倭健など歌に詠まれた平群山は生駒山系の生駒山信貴山の中間の平群町西側の一帯を指すと思い込んでいた。倭健が国を代表する美しさを詠い時勢の歌としたのがこの狭い平群谷からの眺めということに納得行かず、倭健個人の思い出に過ぎず、他人には理解不能の作品だと思い込み、無視してよい、無視したほうがよい歌としていた。

最近、昨日も訪れた奈良県立民俗博物館やちょくちょく訪れるあすのす平群平群町立図書館と観光文化交流館併設ということで、美術館や博物館も兼ねる)などの導きにより、この矢田丘陵をかつては平群山と呼び、丘陵麓のどこかで歌垣があったとか、すごい。おそらく古代に生きていてもこの僕が合コンとか歌垣など顔を出したと思えないが、人々の幸せを想い祝福するぐらいの気持ちはある。いったい歌垣会場は何処だったんじゃ?

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国偲び歌

やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまこもれる やまとしうるはし

倭は 國のまほろば たたなづく 青垣 山隱れる 倭しうるはし

(大和の国は国々の中で最も優れた国だ。重なり合って青々とした垣のように国を囲む山々。(その山々に囲まれた)大和は美しい)

夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯 -- 倭建命『古事記』景行記

夜麻苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜麻許莽例屡 夜麻苔之于屡破試 -- 大足彦忍代別天皇(景行天皇)『日本書紀』景行記

いのちの またけむひとは たたみこも へぐりのやまの くまかしがはを うずにさせ そのこ

命の 全けむ人は 疊薦 平群の山の 熊白檮が葉を うずに挿せ その子

(命の完全な人は、平群の山の熊樫の葉を髪に挿せ(挿して、命を謳歌せよ)、その人々よ)

伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古 -- 倭建命『古事記』景行記

異能知能 摩曾祁務比苔破 多々瀰許莽 幣愚利能夜摩能 志邏伽之餓延塢 于受珥左勢 許能固 -- 大足彦忍代別天皇(景行天皇)『日本書紀』景行記

(後半略)

古事記』では倭建命の辞世。『日本書記』では景行天皇が日向で詠んだ歌。

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日本列島の中の大和国中の風景を見渡し、その美しさをあらためて寿ぎ、垣のように巡る山(カメラを大きくパンして)の中で西北の平群の山をズームアップしてゆく。この歌がようやく納得できた。腑に落ちました。

(もしこれが狭い平群谷の中で見える風景なら!?)

倭健が育った父景行天皇の皇居は都は纒向日代宮とあり、もし宮が今の纒向としたらまさに健が子どもの頃から家の真正面の風景ということになる。おまけに薬狩りや歌垣、平群軍団ということで、若き健はまさに身近に憧れを持ったとしても理解できる。生駒山系の山を含めてもいいが、やはり矢田丘陵が平群山であればこの国偲びの歌の持つ映像美が活き活きと見えてくる。ああ、同じことを何度も何度も話ししてしまう。

国道308号線は大坂、日下の南、平岡神社辺りから暗峠を越えると生駒谷に入り、矢田丘陵を登り下り榁の木に奈良県立矢田自然公園があり、園内を通って下ると途中に奈良県立民俗博物館にぶつかる。さらに下るとすぐ富雄川に出る。

ここ二月ほど、勉強に明け暮れている。毎晩飲まねばもうすごいのだが、そうも行かない。ぼちぼちになる。ここらへんが若くないって感じがしてしまうね。

県民博の鹿谷先生に出会い、先生は僕の足元を指さされるので足元を見ながら地元をとぼとぼ歩いていると平群町の村社先生に出会った。どうしてとぼとぼなのか話していたら平群にも鹿谷先生が来ていて、村社先生と知り合いであることが分かった。世の中は狭いモノだ。

村社先生に先生作成の過去の資料を高さ5cmほど貰った、棚ボタの幸運に恵まれた。その資料が濃いモノで、問題点(すぐには理解できない難解な箇所)が多すぎるモノであった。詠みながらマーカーをつけていき、脚注の本が図書館にあるかどうか確かめながら、地元平群郡の歴史イベントや大和国関連のイベントには参加しながら、もう写真の整理も付かず、もう資料や訪問先の調べもまとまらないまま、もうだんだん脇に置く作業が山積となってきた。もう電話もしない、もうメールもしない、もう小説読み物も見ない、もう好きな映画も芝居も見ない、もう外には飲みに行かず…モウモウの牛になってしまった。

そうそう久しぶりに県民博を訪れるのは矢田丘陵の範囲を知りたかったのと、民家の屋根の美しさの中でかなり綺麗な大和棟を調べたかったから。民博ですべての民家の展示を回り、初めて外周をくまなく巡った。この民俗公園は広かった。汗びっしょり。残念ながら僕が見たかった傾斜角度の違う草葺やねと瓦葺とを組み合わせ、藁葺きの周りにも絵の額のような瓦飾りをめぐらし、角度の違う煙田氏の付いた小さな屋根をセットする、そんな大和棟(下の写真は平群町にある国重要文化財藤田家住宅)は公園には無かった。

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無料の公園部分の小さな期待のアジサイハナショウブもすでに遅し、汗を噴出しながら200円出して民博に入る(冷房が無かった!)。いくつかの展示にちいさな動画説明液晶がつけられた。これはすごい進歩だと思ったが、チェックする時間は無いので、視聴覚室に入り各地の町並みや民家をチェックしたが大和棟は無かった。祭り行事の教材は時間が無いのにすべてチェックした。図書の展示があるが残念ながら鍵がかかっていて、触ることもできない。貴重な本が閲覧できないのは残念。

ようやく現れた館内ガイドにお尋ねしたら学芸員の先生を呼んでくださった。事細かな説明をしていただいたが時すでに閉館間近。専門外だとおっしゃった割にはむちゃくちゃ詳しい。これが学芸員のすごさだとあらためて感心する。お陰様で大和棟についてはいろいろなことが分かった。(写真1枚の展示があった、下)これからますます見て歩きたくなった。

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矢田丘陵の範囲については分からないとのこと、地理の先生に尋ねるべきことだそうである。(この時点ですでに閉館時刻が過ぎていた)

(民博入ったところに奈良県全体の地図が壁面いっぱいに展示、下。確かに矢田丘陵は表現されているのだが…)

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ところで、もやもやこだわりの矢田丘陵=平群山の北限

生駒の中部まで、もしその白庭の丘まで矢田丘陵ということになれば、「矢田丘陵」だけで、長髄彦の本拠であり、饒速日命の墓があり、神武の鳶伝説の地であり、聖徳太子信仰のメッカであり、…と歴史の縦糸が何本も見えてくるし、あるいは未発見のつながりまで見えてくるかもしれないと妄想しているのだなぁ

自分のこだわりが見えたのでほっとする。大国主国譲りの神話時代と、倭健の英雄伝説時代と、古墳時代末期と、記紀万葉成立の奈良時代以後とを平群郡というエリアで理解したかったんだね。

 

民博で教えていただいた本や基礎的な建築について調べたくなり生駒市図書館に急いだ。こちらの閉館時間は夜8時、もうあまりゆっくりはできない。コンピュータの検索機は子どもも使う漢字の使えないもの。もどかしい。カウンタで司書に教えてもらうことにした。やはり司書はすごい。10冊ぐらい持ってきてもらい、1冊はすぐに本屋へ行って買いたくなった、8冊は部分コピー、5冊は借り出しということになった。えらい収穫である。自分の専門外の分野の疑問に応えるのが学芸員の仕事であり、司書の専門性なのか。まるで探偵だね。すごい。大和棟だけですごい量の情報が手元に集まったが、ほんの序の口だ。こんなことにこだわっていると平群全体はもちろん、大和一国の歴史も進まないなぁと、ため息が出る。でも、次々湧く疑問に子ども時代に戻ったようなワクワクを感じるのが嬉しい。