龍田比古の奥山日記

愛する人を追い、斑鳩、三郷、平群、生駒、安堵…龍田川流域など大和を歩いている。気持ちのいい石室によこたわるかとおもえば、万葉のイリュージョンに垣間見たり、十一面観世音が暗号を呟く。…生駒郡という現代の地名を旧平群郡と読み替えると、いろいろなことが見えてきました。

近藤史恵 「キアズマ」

ロードレーサーという種類の自転車との出会いを描く。
フランス留学から帰り、日本の大学に入る主人公。彼は通学にはモペットに乗っているが自転車部のグループと不幸な接触、逃げ出したが追いかけられ今度はトラックと出会いがしらのアワヤの状況で自転車部長に怪我をさせてしまう。お侘びに何でもすると言ったばっかりに自転車部入部を求められロードレーサーと出会う。

ロードとの出会いのいくつかを引用して並べてみたい。あぁ!それそれと我が膝をたたく文章で、かつて言葉にできなかった状況や気持ちを日本語にしてくれている。
自転車は確かに爽快だ。風を感じるし乗った後の疲労には何かしらの達成感に似た感覚が質量を持って存在する。
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「レーサーパンツは、パンツを脱いで直に穿くんだぞ」
「ええっ」p.33
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ええっ!?
まったく同じ感じ。びっくり。ワセリンまで使わなかったけど…

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スピードが落ちると同時に足をつこうとして気づいた。
ペダルとシューズが完全に固定されている。どうやって外すのかがわからない。p.38
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立ちごけ、これ本当にやってしました。
まず外し方が馴れていなくてタイミングが遅れ両足がペダルに着いたまま横にゆっくりバッタン
左足を外して停車準備に入ってから、急に右側に倒れた。
信号待ちで停止線の手前で車道端に停車。外して支えるはずの左足が草の中に吸い込まれ溝深くはまってしまった。地球ははるか下だった。こういう時、恥ずかしくて周りのドライバーや歩行者の視線を痛いように感じる。

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ほんの少しペダルを踏むだけで、ロードバイクは羽根でもついているかのように軽やかに進む。
こんな乗り物ははじめてだ。昔乗っていた自転車ともまったく違う気がする。もちろん、エンジンのついたモペットとも。p.50
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最初のスポーツバイクはマウンテンバイクだった。マウンテンバイクはこの時、日本ではまだ流行らず、サンフランシスコではこの話題でもちきり。近鉄大和西大寺駅前のキタサイクルのオリジナルを購入した。そのショップのおもしろい親父さんに意気投合、いわれるまま買うことに決めた。ダウンヒルに少し比重が偏った極端に太いタイヤを装着、アルミの鈍い銀色の短いフラットバーと大き目のグリップも新鮮だった。でも山登りは過酷、ヘビーなバイクにヘビーな僕。だから初めてドロップハンドルの細いタイヤにまたがったトタン、体も心も浮き上がるようだった。

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息が弾みかけたとき、ハンドルを握っていた指がなにかレバーのようなものに触れた。
なんだろう、と思いながら、そのレバーに指をかけてにぎりこむ。
カシャッとなにかが切り替わる音がして、急にペダルが軽くなった。
驚くと同時に気づいた。ギアチェンジだ。ディレイラー、つまり変速機がついていることをすっり忘れていた。
もう一度レバーを引くと、またペダルが軽くなる。どうやらもっとも重いギアでずっと走ってきたようだ。引き離されるはずである。
ペダルを回すごとに進む距離は少ないが、それでも軽やかに進んでいける。p.53
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このギアチェンジに馴れると上り下りが楽しくなる。馴れるまでが大変だった。ゆっくり有酸素運動するつもりなのに焦ってしまい、息切れしながら飛ばしてしまう。どうしてだろう。
生駒聖天と呼ばれる生駒山宝山寺への参道。表参道は近鉄奈良線生駒駅前から続く参道、少し上るとすぐに石段になり、桜並木が美しい。もちろんこの参道はバイクでは無理。同じ駅前から続く自動車道がバイクには相応しい。下りは自動車と一緒に走ることができる。変速機に馴れたのはこの道を往復するようになったから。
もう一つ「裏参道」とでも呼ぶべき自動車道がある。センターラインはなく狭い道で、途中江戸時代の参道と合流したりする。

傾斜もきつく、車が対抗してすきまもなく止まってしまうと下車することになるが、次にまたがるとブレーキをかけたままずるずるとスリップしつつ後退する。あまりの傾斜にブレーキがきかない恐ろしさ。幸い止まったところで無理にまたがって運転すると気をつけないと前輪が空中をさまようウィリー状態になる。
暗峠越えのあの地獄のような傾斜にも匹敵する。暗峠を経由する国道308号線にはもう一つすごい傾斜がある。距離は短いが生駒山系の東が生駒谷で、そこからさらに東方を目指すと奈良に行き着く。その前に立ちはだかるのが矢田丘陵。国道沿いに生駒市自慢の小瀬の足湯「歓喜の湯」(無料)があり、その足湯から先は信じられないような細い国道。峠に差し掛かる直前に決して止まれない上り坂がある。止まると自転車も自分の足もズルズルスリップしながら滑り落ちる。自動車だってよく似たもので、その坂で止まりたくない初心者や無精者はクラクションを鳴らしながら疾走してくるからたちが悪い。お気をつけ

て。

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頭の中が一色に染められてしまったようだった。
自転車のことしか考えららない。授業に出ていても、テレビを見ていても。頭の中にはいつもロードバイクがあった。p.58
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これでは恋のようだがほんとうにそんな気持ちがわいてくる、というような熱い期間もある

矢田丘陵と大和棟

毎日見えてしまう生駒山。麓で暮らすと意識すらしない。

まして龍田川左岸矢田丘陵麓に住むと矢田丘陵はもっと意識化できない、この丘陵はいわば土であり水であり風、空気そのもの。

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生駒山を主峰とする生駒山系と矢田丘陵に挟まれた生駒谷そして平群谷、ここにうずまった歴史や文化に気づきだした。

今までの自分だけの狭い世界ではない、時代を超えた人とのつながりができるかもしれない、そんな予感で落ち着かない。

国道308号線から眺める山(上の写真)は円錐形の富士山のような神名備には見えない、なだらかで穏やか優美な生駒山。足元の矢田丘陵はかつてたたみこも平群山と呼ばれ、歌枕であり歌垣の山里であり狩場であり胸をときめかし憧れの場所だったようだ。

最近まで倭健など歌に詠まれた平群山は生駒山系の生駒山信貴山の中間の平群町西側の一帯を指すと思い込んでいた。倭健が国を代表する美しさを詠い時勢の歌としたのがこの狭い平群谷からの眺めということに納得行かず、倭健個人の思い出に過ぎず、他人には理解不能の作品だと思い込み、無視してよい、無視したほうがよい歌としていた。

最近、昨日も訪れた奈良県立民俗博物館やちょくちょく訪れるあすのす平群平群町立図書館と観光文化交流館併設ということで、美術館や博物館も兼ねる)などの導きにより、この矢田丘陵をかつては平群山と呼び、丘陵麓のどこかで歌垣があったとか、すごい。おそらく古代に生きていてもこの僕が合コンとか歌垣など顔を出したと思えないが、人々の幸せを想い祝福するぐらいの気持ちはある。いったい歌垣会場は何処だったんじゃ?

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国偲び歌

やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまこもれる やまとしうるはし

倭は 國のまほろば たたなづく 青垣 山隱れる 倭しうるはし

(大和の国は国々の中で最も優れた国だ。重なり合って青々とした垣のように国を囲む山々。(その山々に囲まれた)大和は美しい)

夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯 -- 倭建命『古事記』景行記

夜麻苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜麻許莽例屡 夜麻苔之于屡破試 -- 大足彦忍代別天皇(景行天皇)『日本書紀』景行記

いのちの またけむひとは たたみこも へぐりのやまの くまかしがはを うずにさせ そのこ

命の 全けむ人は 疊薦 平群の山の 熊白檮が葉を うずに挿せ その子

(命の完全な人は、平群の山の熊樫の葉を髪に挿せ(挿して、命を謳歌せよ)、その人々よ)

伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古 -- 倭建命『古事記』景行記

異能知能 摩曾祁務比苔破 多々瀰許莽 幣愚利能夜摩能 志邏伽之餓延塢 于受珥左勢 許能固 -- 大足彦忍代別天皇(景行天皇)『日本書紀』景行記

(後半略)

古事記』では倭建命の辞世。『日本書記』では景行天皇が日向で詠んだ歌。

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日本列島の中の大和国中の風景を見渡し、その美しさをあらためて寿ぎ、垣のように巡る山(カメラを大きくパンして)の中で西北の平群の山をズームアップしてゆく。この歌がようやく納得できた。腑に落ちました。

(もしこれが狭い平群谷の中で見える風景なら!?)

倭健が育った父景行天皇の皇居は都は纒向日代宮とあり、もし宮が今の纒向としたらまさに健が子どもの頃から家の真正面の風景ということになる。おまけに薬狩りや歌垣、平群軍団ということで、若き健はまさに身近に憧れを持ったとしても理解できる。生駒山系の山を含めてもいいが、やはり矢田丘陵が平群山であればこの国偲びの歌の持つ映像美が活き活きと見えてくる。ああ、同じことを何度も何度も話ししてしまう。

国道308号線は大坂、日下の南、平岡神社辺りから暗峠を越えると生駒谷に入り、矢田丘陵を登り下り榁の木に奈良県立矢田自然公園があり、園内を通って下ると途中に奈良県立民俗博物館にぶつかる。さらに下るとすぐ富雄川に出る。

ここ二月ほど、勉強に明け暮れている。毎晩飲まねばもうすごいのだが、そうも行かない。ぼちぼちになる。ここらへんが若くないって感じがしてしまうね。

県民博の鹿谷先生に出会い、先生は僕の足元を指さされるので足元を見ながら地元をとぼとぼ歩いていると平群町の村社先生に出会った。どうしてとぼとぼなのか話していたら平群にも鹿谷先生が来ていて、村社先生と知り合いであることが分かった。世の中は狭いモノだ。

村社先生に先生作成の過去の資料を高さ5cmほど貰った、棚ボタの幸運に恵まれた。その資料が濃いモノで、問題点(すぐには理解できない難解な箇所)が多すぎるモノであった。詠みながらマーカーをつけていき、脚注の本が図書館にあるかどうか確かめながら、地元平群郡の歴史イベントや大和国関連のイベントには参加しながら、もう写真の整理も付かず、もう資料や訪問先の調べもまとまらないまま、もうだんだん脇に置く作業が山積となってきた。もう電話もしない、もうメールもしない、もう小説読み物も見ない、もう好きな映画も芝居も見ない、もう外には飲みに行かず…モウモウの牛になってしまった。

そうそう久しぶりに県民博を訪れるのは矢田丘陵の範囲を知りたかったのと、民家の屋根の美しさの中でかなり綺麗な大和棟を調べたかったから。民博ですべての民家の展示を回り、初めて外周をくまなく巡った。この民俗公園は広かった。汗びっしょり。残念ながら僕が見たかった傾斜角度の違う草葺やねと瓦葺とを組み合わせ、藁葺きの周りにも絵の額のような瓦飾りをめぐらし、角度の違う煙田氏の付いた小さな屋根をセットする、そんな大和棟(下の写真は平群町にある国重要文化財藤田家住宅)は公園には無かった。

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無料の公園部分の小さな期待のアジサイハナショウブもすでに遅し、汗を噴出しながら200円出して民博に入る(冷房が無かった!)。いくつかの展示にちいさな動画説明液晶がつけられた。これはすごい進歩だと思ったが、チェックする時間は無いので、視聴覚室に入り各地の町並みや民家をチェックしたが大和棟は無かった。祭り行事の教材は時間が無いのにすべてチェックした。図書の展示があるが残念ながら鍵がかかっていて、触ることもできない。貴重な本が閲覧できないのは残念。

ようやく現れた館内ガイドにお尋ねしたら学芸員の先生を呼んでくださった。事細かな説明をしていただいたが時すでに閉館間近。専門外だとおっしゃった割にはむちゃくちゃ詳しい。これが学芸員のすごさだとあらためて感心する。お陰様で大和棟についてはいろいろなことが分かった。(写真1枚の展示があった、下)これからますます見て歩きたくなった。

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矢田丘陵の範囲については分からないとのこと、地理の先生に尋ねるべきことだそうである。(この時点ですでに閉館時刻が過ぎていた)

(民博入ったところに奈良県全体の地図が壁面いっぱいに展示、下。確かに矢田丘陵は表現されているのだが…)

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ところで、もやもやこだわりの矢田丘陵=平群山の北限

生駒の中部まで、もしその白庭の丘まで矢田丘陵ということになれば、「矢田丘陵」だけで、長髄彦の本拠であり、饒速日命の墓があり、神武の鳶伝説の地であり、聖徳太子信仰のメッカであり、…と歴史の縦糸が何本も見えてくるし、あるいは未発見のつながりまで見えてくるかもしれないと妄想しているのだなぁ

自分のこだわりが見えたのでほっとする。大国主国譲りの神話時代と、倭健の英雄伝説時代と、古墳時代末期と、記紀万葉成立の奈良時代以後とを平群郡というエリアで理解したかったんだね。

 

民博で教えていただいた本や基礎的な建築について調べたくなり生駒市図書館に急いだ。こちらの閉館時間は夜8時、もうあまりゆっくりはできない。コンピュータの検索機は子どもも使う漢字の使えないもの。もどかしい。カウンタで司書に教えてもらうことにした。やはり司書はすごい。10冊ぐらい持ってきてもらい、1冊はすぐに本屋へ行って買いたくなった、8冊は部分コピー、5冊は借り出しということになった。えらい収穫である。自分の専門外の分野の疑問に応えるのが学芸員の仕事であり、司書の専門性なのか。まるで探偵だね。すごい。大和棟だけですごい量の情報が手元に集まったが、ほんの序の口だ。こんなことにこだわっていると平群全体はもちろん、大和一国の歴史も進まないなぁと、ため息が出る。でも、次々湧く疑問に子ども時代に戻ったようなワクワクを感じるのが嬉しい。

 

のより!見つけた

奈良博のあと、興福寺の南円堂と北円堂をお参りして、三条通を西方へ歩いていたら豆屋のとなりに酒屋があった。

ああ、これが「のより」見つけた。

酒の先生のK氏が教えてくれた店。奥には立飲み処を併設。でも今日は団体が貸切で使っている。残念。

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生酒を買って走って帰った。

発泡酒だった。美味かった。

舟を編む 映画

図書館に本を予約して、映画を待った。

本はまだまだ順番が来ない。

その内、封切、もう夜間一回だけのショーとなった。これ以上待てないので、映画を先に見ることにした。

イヤー、面白かった、笑った、泣いた。

kangeki観劇 感激

しゃばけ

観ました。久しぶりの舞台。上本町の新歌舞伎座。面白かった。

芝居は祝祭である。分かりきった事を、楽しんで確認いたしました。笑いで邪気をはらい穢れを祓う。原始演劇のすばらしい成れの果て。これはもうTVでも映画館でも味わえない。芝居教の信者になりました。芝居狂ということかも知れませぬ。

その後、地元の大好きな俳優や女優と一緒に観劇できた幸せに、なごり惜しみ少しだけ飲んで帰りましたが、それがまた楽しく幸せのテンコモリ。舞台のカーテンコールで二度も三三七拍子を会場で打つという場面がありましたが、楽しくて、名残惜しくて、あの気分を何度も噛締めました。

(ここまで気分が上がると携帯でスナップ写真も忘れました。)

http://www.duncan.co.jp/web/stage/shabake/

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初めての銀龍草

EOC-netト生駒のイベントに参加したとき往馬大社の宮司さんがここで銀龍草が咲きます、観られますと教えていただいた。それで本日半日勤務のため往馬大社に駆けつけました。

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とうとう片思いの花に出会い、見詰め合いました。

うーん、不思議な青い目を持っている。青い一つ目小僧。

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お若い神職さんが、もう一、二週間早かったらよかったのに、と教えてくださった。来年は必ず咲き始めからお見合いしたい。

生駒山に神が降った気配、というような存在に見えた。合掌

 

斑鳩藤ノ木古墳の石室に3分間入ったよ

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平成25年5月4日藤ノ木古墳石室特別公開に参加した。感動 

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9時ごろには到着したのに長蛇の列、列の先頭はテントの中にぎっしり詰めて座っている。並ぶのは嫌いだ。モノには両面ある。並ぶことに一分の利があるとすれば、行列のほとんどがただひとつの熱でつながっている。三郷から来られた親子連れ。

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 できるだけ団欒を邪魔しないようにした。水入らずというではないか。口を出さず、目を合わさず。でも説明プリントを頂き、恩を感じていた。そこに奥さんが「両袖式って何?」と口にしたのに反射的に身振り入りの説明をしてしまった、教えたがり屋にはなりたくなかったのに。かわいい子どもにかわい両親。

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出口で学生さんが箱を抱えて笑顔で待っていた。なけなしの硬貨でニッケル色を全部募金箱に入れた。(1円玉5円玉10円玉は賽銭用に残しておいた。)

募金の勢いで(あさましい)墓の中で気にかかった思い付きの疑問で(まぁ思いつかない疑問も無いが)、その愚問を作業服の学芸員らしき役人にお尋ねした。未盗掘の理由、羨道の向き(方角が真南でない)、周りの状況(西岡棟梁のお宅もある西の里)など。あまり昔のことを聴くので偉い先生を呼んできてくれた。昔といって古墳の築造当時の話で、関係者なら知っていても不思議ではない。

なんとその会場の責任者らしき方にすごい事実を教わった。 

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閉塞石を取り外すと外気が石室に入り込んだ。石室は白い靄に包まれ、とても幻想的であった。 

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そのお方の師匠が、被葬者の葬送以来最初の入室者であった、師匠から聞かれた生々しい感動を、文化財の保護に献身する心の支えとされているようなニュアンスで語っていただいた。 

 

ぼくも石室に吹き込んだ夏の風を想像した。耳元を抜ける温度、音、石室内の気配、…もし映画を作るなら、どうしても書き出さねばならないことごとを。

 

それと、そんな気密性を実現した確かな腕の持ち主、1400年以上昔の石工や土木建築家の職人気質を。ついでに申し上げるなら、その職人たちの使った道具類、製作過程を。完璧ともいえる気密性と矛盾はしないが不本意な石棺内部の水。そしてもしあるのなら知りたい、その水の恩恵を。

 僕のような専門家でも考古学ファンでもない、なんでもない一個のただの歴史好きに過ぎない見物人に発掘調査のおりの秘密を明かしていただいた。初めての石室入室の感動にその場を去りがたく、思いつきの質問のためにわざわざ偉い先生を呼んでいただいた。嬉しかった。先生の感動的なエピソードだった。 

 近くの斑鳩文化財センターでその先生の名を尋ねると平田政彦先生であると教わった。また「斑鳩町の古墳」を求めたときも丁寧な説明を戴いたのが、荒木浩司先生。斑鳩町はこの親切な先生方が文化財を護っている。平群町の村社仁史先生にも感動したが、なんの利益にもつながらないよそ者にさえ、誠実な教育者でいてくださる。 深い感謝の念と、恥ずかしながら勉強するぞと勇気が湧いた。

 

文化財は非公開で保存するだけが保護ではないという精神であろうか。

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背後の丘を少し登ると池や中学校、県民運動場がある。陶製の椅子円卓の側に風景の説明板が設置してあった。こういう案内が古墳にはとりわけありがたいと最近思うようになった。

マンボウさんの而今を味わう会

ま新しいブログにさっそく躓き

写真が今月分を使ってしまったらしく使えません。

 

とりあえず、他のサイトで大急ぎで書きましたので観てください。

http://blog.goo.ne.jp/ikomahiko

gooブログの龍田比古の奥山日記続です

ようやくkoboアプリできた

koboを買って後悔していたが、koboのアプリができたらしい、というのでiPadにインストールしてみた。

このタッチパッドの操作性いいね。

油の切れたオジサンでもきびきび動いてくれる。koboもそう悪くは無いかもしれない。読書タブレットのkoboタッチ本体以外は使えるかもしれない。

久しぶりに本を買ったり、システムのアップデートをしたら、何となく前よりは少しだけよくなったかもしれない。このタッチパネルもwifiでアップデートできたらいいけど。

単語やセンテンスを範囲指定がどうしてもできない。iPadのkoboアプリでは嘘のようにできる。これは僕にとってはkoboの自己否定ではないかと思う。残念。でもまぁ、koboタッチ本体以外は再び使い始めよう。ソニーリーダーやアマゾンkindle電子ペーパーもこんなにひどいのだろうか。それとも電子ペーパーとタッチパネルはまったく別物なんだろうか。しっかり公正に批評している人はいないのだろうか。

 

ブクログなど読書アプリとどう連携できるのか、まぁそこまで欲張らなくてもよいか。紙の本のようにそれぞれ読んで困らないけど、まぁ、ぼちぼちいきまひょか。

 

 

ところで今

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koboで買ったのは

「南大門仁王像 大修理」~運慶に挑んだ30人 創意は無限なり

本はお面白い。この番組見たかったなぁ。何とか見ることができんかなぁ

 

iPadは操作性がよい。寝転んで読んでもバックライトで向きに関係なく読める。

koboは軽く持って読める。光らなくて目に優しい。寝転ぶと照明の陰になって読みにくい。

パソコンでは?あれ?まったく読めない。がっかり。7netの電子書籍はパソでもiPhoneでもiPadでも読めるのに。

 

koboアプリ、iPhoneでもiPadでも途中で上記の買った本が読み込み中で接続したままくるくる回っている。やっぱり期待はずれか。肝心の本が読めないリーダーは最低だね。

koboでは最後まで読むことだけはできた。う~ん、どう評価していいのか

はてなブログ こんにちは

かくかくしかじか、そういう訳でこちらにお邪魔しており、ダイアリーからすっかり引越ししてきました。

ついでにニックネームもちょっと拡大して変えてしまいました。

世の中のたくさんの龍田比古さま、仲間入りさせていただきます。

 

少なくともここでは一文字5秒かかるということは、今の所ありませんので、安心しました。

ネットはいったいどうなってんのやろう

往馬比古の平群歴史ウォークの写真をアップし、ブログはてなダイアリーに報告の短い文章をアップするときの話。
mixiの「フォト」に18枚の写真をアップした。当然ながらあっという間に届き編集画面に移り、コメントを記入して終わった。

http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000082513837&owner_id=4288896

同じことをこのはてなのサイトに送ろうとしたら3時間たっても届かない。
mixiには届くのでこちらの機械や回線の問題では無いだろう。

翌朝5時過ぎからアップすると普通に届いた。でも文字入力が今、矢印キーでカーソル一文字分移動するのに1秒ぐらいかかっている。
これはもうこのはてなのサイトで10行以上の文字をかけない。そういう雰囲気になってきている。

だからはてなブログが必要になったのだろうか。左の文の最後の文字の入力について、kaと打って「か」とひらがなが出てくるのに5秒が必要だった。

 もうとてもこんな所で書いていられない

auのメールがおかしい。昨日からずっとおかしい。
auもはてなも同じ障害なのか?

往馬比古の平群歴史ウォークがはじまった

初めての平群歴史ウォーク
2013年4月13日(土)9時半
平群駅スタート、宮内庁管理の長屋王墓と吉備内親王墓、三里古墳、船山神社、平等寺春日神社、道の駅(昼食)、平群神社、西宮古墳、消渇(しょうかち)神社、岩床神社、岩床神社旧社地、烏土塚古墳、
16時竜田川駅前解散。
こういうコースプランを作成し、先導してくださったのは地元の観光ボランティアガイドMさん。
参加者は職場の友人Sさんと、彼の親戚Mさん。総勢4名の初老の健脚グループと相成りました。女性陣も必要だと思ったが、男性も含め計画から実施まで期間が少なく、人を誘うのには不十分であったようだ。先約の無かった女性も足をくじいて不参加に。
結果的に素敵なガイドと感受性豊かなわれわれメンバーで中身の濃い、平群に愛着が湧くイベントとなり、けがも無く成功裡に終了することができた。メンバーとガイドの皆さんに感謝です。合掌

なかなかのつわものぞろいとなりました。右が友人で修験者でもあるSさん。中央が平群町観光ボランティアガイドの会のMさん。左は前日に参加が決まったSさんのご親戚Mさん。四人全員平群郡の住人ですが、現住所は写真のお三人が平群町民。

明治時代まで「大平群」とでも申しましょうか、古代の平群郡が残っていました。ガイドMさんの説明地図があればここに掲げるのに、残念。言葉で書くと地理は煩雑、正確に書こうとすればするほど言葉が多くなる。
簡単に言えば平群郡北は北生駒村(後に生駒町に改称→生駒市阪奈道路生駒俵口インターのある俵口町〜小明町あたりまで。
西は信貴生駒山脈、東は平端村(昭和村→大和郡山市)というから近鉄平端辺りまで。
南は今の斑鳩町・安堵町のある法隆寺村・安堵村まで。

この広い範囲が明治まで平群郡だったという事実。法隆寺の北から饒速日命墓のある白庭付近まで南北に続く矢田丘陵は三輪山の麓のイワレの都から眺めると夕日の沈むところが平群の山と呼ばれていたに違いない。平群郡夜麻郷である。
その都で育った倭健命の国偲びの歌(岩波文庫古事記P127)の[平群の山]とはこの斑鳩町から大和郡山市矢田あたりまでの北西に優しく盛り上がる美しい丘陵のことであり、クマガシの葉が緑色をより美しく彩っていたのだろう。家来に勇敢な平群つわもの供を侍らしていたのだろう。
[平群郡]という歴史を習った誰でも知っていそうな言葉を知らなかったので、国偲びの歌が平群の山を指し[国のまほろば]「青垣山隠れる」なかなか具体的なイメージとならなかったのに、スッカリストンと腑に落ちました。法隆寺もまだないし、もちろん法隆寺五重塔も見えなかった時代の法隆寺の山のお話でした。
あの古事記の中で一番好きな歌は平群山の里も駆け巡って育ったであろう倭健の望郷の歌である。倭健にとって大和の国を成立させる重要な要素が平群山であり、平群の子(民、兵)であったのではないか、最も美しいものであったろう。
生駒郡と変わり、矢田丘陵と呼んでいるから余計分からなくなるのであって、地名を平群郡、山を平群山とすれば誰にでもこの美しい歌の真実が分かると思う。

博学ガイドのMさんによると「平端」とは平群の果てという意味だそうです。へぇ、へぇ、へぇ。
古事記の地名譚は面白い。Mさんはまるで稗田阿礼みたいや!


①<吉備内親王墓(きびないしんのうのはか)>生駒郡平群町梨本

吉備内親王墓。長屋王と共に、その埋葬方法等は不明であるが、『続日本紀』には、自経の翌日、生駒山に葬られているとの表現しかなく、現在の治定墓との関係も憶測の域を出ない。「平成24年度観光ボランティアガイド養成講座見学資料。05』平群町教育委員会編(P.2)(以下同書を『見学資料05』と略記)


①<長屋王墓>生駒郡平群町梨本

長屋王墓(ながやおうのはか) 生駒郡平群町梨本
形式=円丘
竜田川の東岸にある直径約15mの円丘である。長屋王天武天皇の孫で、[続日本紀]には神亀六年(729)に生駒山に葬ったとのみ記載され、明確な葬地は示されていない。野淵龍潜の「大和国古墳墓取調書」によれば、明治の中頃に「長屋王墓」は「ナガヲ塚」と呼ばれていたが、埋葬施設等は不明。その後、宮内庁により管理され、現在に至る。近年の周辺の発掘調査により、現在の長屋王墓と後円部が同心円に重なる位置に前方後円墳が確認された。全長は推定で45m、後円部径約30mで前方部を北西に向けた前方後円墳と考えられている。これは梨木南二号墳と呼ばれ、古墳周溝の一部を調査したところ、葺石、円筒埴輪片、須恵器片が出土している。
築造時期は、出土遺物から六世紀前半と考えられ、前方部や後円部の周囲の削平は、平安時代終わり頃から始められていた。梨本南二号墳の時期は長屋王の死亡年代と大きく異なっており、「長屋王墓」の円丘と梨本南二号墳の関係もこれまでの調査では明らかになっていない。『改訂版奈良まほろばソムリエ検定公式テキストブック』(P.106)(以下同書を『奈良通』と表記)


②<三里古墳(みさとこふん)>

生駒郡平群町三里
形式=円墳または前方後円墳 築造=6世紀後半ごろ
 竜田川の東岸、矢田丘陵から南西に延びる尾根上の古墳である。早くに墳丘が破壊されており墳形は明確ではないが、直径20mほどの円墳もしくは全長35mほどの前方後円墳と考えられている。葺石は確認されているが、埴輪は出土していない。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、石室の天井石と側壁の一部は失われていたものの、玄室の奥壁下に石棚と呼ばれる板石による特殊施設が確認された。石棚を持つ横穴式石室には通常、結晶片岩が用いられるが、三里古墳は花崗岩を用い、石棚が低い位置にあるなど特異な点もあるが、石棚の類例は奈良県下では岡峯(おかみね)古墳、槇ヶ峰古墳など少なく、和歌山県紀の川流域に多く見られることから、紀氏との関係が指摘されている。副葬品がよく残っており、金銅製の馬具二組、直刀鉄鏃、須恵器、土師器など多数出土している。『奈良通』(P.106)


平群谷の四国八十八箇所石仏

岩井地蔵堂 砂岩製の阿弥陀如来像は、平群谷の四国八十八箇所石仏の一つで、讃州琴引八幡 第六十八番の銘があり讃岐国(香川県)七宝山神恵院に対応する石仏である。『見学資料05』(p.11)


平等寺船山神社 陽石 すごいですね、そそり立っていますよ。

船山神社
船山神社は『延喜式』「神名帳」にみえるが現在地は式内社である中之宮村の氏神、船山神社(旧社地は東光寺の東側)を、安明地村の氏神、春日神社(東香寺東側)に合祀したものであり、本来の式社内の所在地ではない。現在地は矢田丘陵の山腹斜面を平らにして社殿を配している。急な石段を登りつめると拝殿にいたり、右手前には中之宮村の旧社地より移された立派な陽石(男性のシンボル)が配されている。祭神は、中之宮村で祀られていた船山神と安明寺村で祀られていた春日社の天児屋根尊の二柱の神である。立派な覆い屋内に小ぶりの春日造りの本殿がある。『見学資料05』(P.12)


⑤船山神社 石段


平等寺春日神社 摂社大国主神

平等寺春日神
春日神社は平等寺と下垣内(しもがいと)の両大字の氏神で、この2つの大字は元は1つであったと考えられている。
祭神は天児屋根命で、本殿は春日造極彩色トタン葺きである。改修以前は瓦葺の覆屋があり、檜皮葺であった。
本殿の左手には素地の摂社が並び、それぞれ若宮社、住吉社、大国社、菊理比売社、市杵島社が祀られている。他に手置帆負神、屋船久々能知神、屋船豊受神、彦挟知神も祀られている。
手前にある割拝殿の北側には数枚の絵馬が奉納されている。この一枚に珍しいナムデオドリの絵馬がある。文久元年(1861)に下垣内村奉納の銘があり、雨乞い祈願の満願の日に神前に奉納(順季祝い)する踊りの様子を克明に描いたものである。ナムデオドリは各所で行われた行事であったが、既に途絶えてしまい、平群ではその歌詞だけが伝わっている。踊りの一行は下垣内を出発し、東の神社へ向かい、踊りを奉納する。この絵馬は奈良県の指定文化財の話もあったが、残念なことに新たに彩色が施されてため、指定を受けていない。
また、境内には多くの石灯籠が奉納されており、延宝5年(1677)銘の石灯籠が最も古いものである。広庭の北東には「アビラウーンケン」の梵字を刻んだ角柱(110×30×18cm、紀年銘なし:胎蔵界大日の真言、報身)があり、神社を含めた広い範囲が寺跡だったと考えられている。『見学資料05』(p.15)

平等寺東古墳
本殿のすぐ裏に古墳があり、立地から平等寺東古墳と呼称している。墳丘の上半は削平され、石材が露出している。墳丘は東方から延びる尾根を利用して築造されており、墳丘の東側に区画溝を廻らせた直径12m程の円墳である。
主体部は南西に開口する横穴式石室で、現状は片袖式石室に見えるが、天井石が中に落込んで埋没しており、正確な平面形態・規模等は確認できない。石材の大きさや細長い石室の様子から、6世紀後半〜7世紀初頭頃の築造と見られる。『見学資料05』(p.16)


平等寺春日神社 なもで祭絵馬

平等寺地蔵堂


⑨道の駅 古代米(黒米)と平群産野菜のカレー サラダ付+ドリンクバー(計\1,000)美味かった。
くまがしステーション 自然はカフェ&レスト hanana 0745-45-8511
636-0903 奈良県生駒郡平群町大字平等寺75−1
営業時間9:00〜18:00


⑩路面の道標タイル。トラと法螺貝>信貴山役行者(千光寺など)のコース上にあるのかなぁ?


平群神社説明板と本殿


⑫消渇神社の拝殿には祈願の土団子を供える棚が備わっている。


⑬石床神社の本殿。覆い屋の柱の位置がずれている。向かって左の社の桧皮葺がユニーク


⑭これが石床神社旧社地のご神体のイワクラ。巨石信仰のご神体として存在感がある。イワフネ神社と並ぶすごさだ。


⑮烏土塚古墳、本日のメインイベントでフィナーレを飾る国指定の史跡。平群谷最大の前方後円墳

烏土塚古墳(うどづかこふん) 生駒郡平群町春日丘
形式=前方後円墳 築造=六世紀後半ごろ
竜田川の右岸、生駒山地より延びる廿日山丘陵上にある前方後円墳で、全長約60m、前方部を北に向けている。埋葬施設は、花崗岩の巨石を用いた両袖式の横穴式石室で、全長14.2m、棺を納める玄室は長さ6mである。玄室奥と羨道部に組み合わせ式の石棺が収められていた。玄室の石棺東側面には斜格子文の先刻が見つかり、県内での石棺装飾の数少ない類例である。石室は何度も盗掘を受けていたが、銅鏡、金銅製馬具、象嵌をもつ太刀、鉄鏃、刀子(とうす)、耳環、ガラス小玉など多数の遺物が出土した。また、石室の前庭部に人物や家形埴輪などの形象埴輪が須恵器の甕や子持ち器台とともに出土し、機内での埴輪祭祀の終焉段階の資料として重要である。『奈良通』(p.107)


⑯われわれが中で見学しているとご近所の親子が石室に入ってきた。幸運な子ども、その幸運を感じたのか撮ってくれと前に立った、パチリ。

平群町観光ボランティアガイドの会
生駒郡平群町福貴1037-2あすのす平群
0745-46-1120

篠峯八反か八反篠峯か

今日は休みだったのに忙しく遊んだ。朝から平群の図書館へいって平群の古墳や神社の資料を読んだ。あっという間に午後。昼食後東大寺に急いだが、もう3時前になっていた。今日公開の公慶堂、公慶上人坐像。観たい見たいみたい。千手堂も公開と聞いて初めて訪れた。観音様目が光っていた。
帰途なら泉勇斎によって篠峯八反新酒呑みたいと言った。遅い!とマスター。遅刻した生徒に遅刻の烙印を押す生徒指導部の教師みたいに、遅い。にゃろめ

火入れ八反を買い、由紀ちゃんにも同じ物を送ってもらった。同じ郵送料で12本送れると薦められたが金が無い。ダース送って飲みに行くって手もあったかもしれない。そんなのやってみたい。

美味い。旨い。篠峯八反、この香り最高。

酒の味が分からないのか。何を飲んでも美味い。
辛口甘口どっちも美味い。辛口端麗は飲み飽きてしばらく濃い口に傾いたが、また何でもよくなった。

たまたま店にきたかっこいい女性がフルーティーな日本酒は許せない。端麗辛口なんて日本酒じゃない。と投げかけてきた。えらいこっちゃ、ありがたいお誘いを、あーあ、にべもなく払いのけ酒瓶をもって走って帰ったのはスクーターで立ち寄ったから。飲めない。残念。電車やったら受けて立ったのになぁ。
辛口の自慢、甘口の自慢で議論できたらそれも最高。けなしあいはごめんなさい。

なんでこんなに美味いのか。フルーティーで辛口端麗なのに甘く味がいっぱいある。この感じはほかの酒ではあまり無いなぁ
美味い、旨い

久しぶりの自転車

何年か壊れていた自転車を修理したのがことし3月30日、足首の故障もだいぶよくなって昨日乗ってみた

気持ちよかった。
帰りは強風の向かい風に戸惑ってしまった。
向かい風でどのように乗っていたのか思い出せない。むやみに戦ってしまい息が上がる。こんなはずではなかった。
ペダル側のギアを一枚増やしたが、ローギアになかなか入らない。何か入れ方があったのかもしれない。自転車屋で教えてもらわないとね。
汗をかき筋肉を使ったときの気持ちよさの感覚が残った、こんな感じやったなぁ