龍田比古の奥山日記

愛する人を追い、斑鳩、三郷、平群、生駒、安堵…龍田川流域など大和を歩いている。気持ちのいい石室によこたわるかとおもえば、万葉のイリュージョンに垣間見たり、十一面観世音が暗号を呟く。…生駒郡という現代の地名を旧平群郡と読み替えると、いろいろなことが見えてきました。

映画「フラメンコ・フラメンコ」

あまり馴染みの無いスペイン、スペイン文化、フラメンコ。この映画はシンプルそのもの。スタジオにカメラが入るイントロ、一曲一曲フラメンコを並べ、21曲目が終るとカメラが後ずさり出て行くエンドロール。曲間の台詞や演技も無し観客の休憩も無し。
だから映画の感想はフラメンコの感想となってしまう。

まず最初の驚きはギターの素晴らしさ。早いパッセージもなんのその、一人で伴奏を付けながらメロディ・ラインも歌う。ギターはオーケストラの様に使われるが、リズムを繰り出し、テンポを刻む分担も大きい。ギター無しでテーブルを二人が叩き、真ん中のもう一人が歌うというシンプルなスタイルもあった。
踊りは情熱・熱情という言葉が陳腐なくらい熱く肉感的で本質的。かなりの高齢者まで踊りに入っていた。踊りの鋭さはともかく、その熱情は感じられた。
ステレオタイプの誤解かも知れないが、手にカスタネットの様な楽器はもたなかった。薔薇の花をくわえる人もいなかった。(日本語字幕の歌詞の意味と、踊りの振りは必ずしも対応していない様な感じだったが、これは確かめなければならない。)あの振りに対応した意味があるのだろうか。

歌については、どう言ったらいいか、日本の各地に伝承されている日本民謡と同じぐらい馴染みが薄く、同じぐらい幼い頃から耳に入り馴染み深いものであった。つまりよく知っているのに、一つも最後まで歌えないくらい知らない、民謡独特の張り詰めた発声は全く出来ない自分がおり、フラメンコの歌も似ていた。音階旋律などは違うかも知れない。東北の民謡と琉球民謡は似ても似つかないが、同じぐらい似ていなかった。そして同じぐらい似ていた。日本民謡のように語尾を極端に延ばし節を付けて歌うのは、ゴスペルだって有りそうだが、フラメンコの方がよっぽど似ていた。驚いた。
若い頃、アイルランドなどのケルト音楽ととても近しい親しみを感じ驚いたことがあった。音楽は不思議だ。謎めいている。興味が尽きない。心の深いところで、体の深いところで、すでにつながっている、人類の深層意識みたいな、進化の過程で共有している何か。